ストラスブールのスキャンダルにおけるわれわれの目的と方法

訳者改題

 シチュアシオニストのパンフレット「学生生活の貧困」*1はフランス全学連〔UNEF〕*2ストラスブール支部の資金で発行されたが、このパンフレットに対してはさまざまなかたちで驚愕と憤慨が表明された。これらの反響はパンフレットにある主張をかなり広く読ましめる点で効果があったものの、今回の件に関するSIの活動がいかなるものであったかについての説明と論評において誤った解釈を次々に生んでしまうことは避けられなかった。新聞、大学当局、さらには幾人かの軽率な学生があらゆる類の戯言(たわごと)を述べて否定もされていないが、これに対し実際いかなる条件のもとにわれわれが介入したのかをここで明確にし、適切と思われた手段によってわれわれがいかなる目的を追求していたのかを確認しておくことにしよう。
 新聞や敵側の弁護人の幾人かは、SIが哀れな学生自治会の金庫から機を見て横領したとされる金額について誇張しているが、それよりさらに重大な誤りと言えるのは新聞が何度も報道した馬鹿げた情報で、それによればSIが何とストラスブールの学生の前で宣伝運動までしてその展望が妥当であると思いこませようとし、これこれの綱領に基いて執行部を選出させようとした、というのである。同様に、われわれが同志を潜入させてUNEFへの浸透工作を計った、などということも断じてない。われわれがこのようなことに興味を示すはずがないし、こんな方法をとるはずもないことは、われわれの読者には容易に理解されるだろう。事実を述べれば、1966年の夏の間にストラスブールの学生数人がわれわれを訪れ、彼らの友人6名――彼ら自身ではない――が地方学生同盟(AFGES)*3の指導部として選出されたところであることを伝えた。いかなる綱領もなく、彼らがUNEF内部であらゆるかたちの腐敗と完全に断絶し、すべてを破壊する決意までしている過激分子であるのはよく知られていたにもかかわらず、である。選挙はまったく合法的なものであったが、明らかに下部組織の完全な無関心とこの組織に残存していた官僚主義分子の決定的無力の告白とを示すものだった。これら官僚主義分子たちは「過激派」執行部の否定的意図に何らかのかたちで支持が表明されるとは計算していなかったのであろう。逆にわれわれを訪れた学生たちはそれを惧れていた。そして主にその理由から彼ら自身がこの「指導部」に名を連ねる必要はないと判断したのである。というのも「指導部」のメンバーなどといいうお粗末な役割を引き受ければただちに妥協していると思われてしまうし、それを避けるにはユーモアのある言い訳などではなく、ある程度大きな行動が必要だったからである。問題の複雑さの最たる点は、われわれに会いに来た学生たちはSIの立場を知っていて、しかもそれを全体として承認すると明言していたのに対し、執行部のメンバーであった者たちはSIの立場はむしろ知らないで、われわれと話しに来た学生たちが自分たちの反体制的善意に見合う活動をせいぜいうまく定めてくれることを主に期待していた、ということであった。
 この段階では、われわれは彼ら全員が学生運動と社会を全般的に批判する文書を執筆、発表することを勧めるにとどめた。このような作業には少なくとも彼らにとって不明瞭なままだったことを共同で明らかにさせる、という利点があったからである。さらにわれわれが強調したのは、かくも軽率に彼らに任された権限が取るに足らぬものであるとしても、金と予算を自由にできることは利用すべき重要な点である、ということ、そしてこの財源を反順応主義的な仕方で使えば必ずや多くの人にショックを与え、その内容においても反順応主義的なものを盛り込めることをより良く示す利点がある、ということだった。この同志たちはわれわれの意見に同意した。この計画の進展において彼らは特にムスターファ・ハヤティ*4を通じてSIと連絡を取り続けた。
 われわれを訪ねた者たちとAFGESの執行部のメンバーはみな問題への取り組みに意欲的で、共同で議論を行い最初の草案の執筆にあたったが、その過程で当初の計画に重要な変更がもたらされた。示すべき批判の趣旨に関しては、そしてまさにハヤティが描いたような大筋については皆が合意したが、新学期まで残された時間がわずかだったこともあってそれを納得のゆく言葉で表現するところまでには至らなかった。それができなかったからといって彼らに能力がひどく欠けていたとか、経験が不足していたとか考えてはならない。それはこのグループ、執行部内と執行部に近い者をも介めたグループが極めて不均質なものであったことによるのである。あらかじめこのLなく曖昧な基本合意のもとに結集していたため、実際に全員で承認したとはいえない理論を共同で文書にすることは困難だったのである。計画が大きくなりてゆくにつれ、個人的な対立や相互不信も表面化してきた。そもそも彼らが本当に共通の意志を持っていたとすれば、それはこの計画に関する種々の立場のうち考えうる限り最も広く受け容れられ、最も根拠のしっかりした立場に与することぐらいであった。このような状況ではムスターファ・ハヤティがほとんど単独で文書執筆の大半を引き受けることとなり、それが順々にストラスブールの学生グループで、そしてパリのシチュアシオニストによって議論され承認されていったが、多少なりとも意味のある加筆をしたのは後者のみで、その数も限られたものであった。
 さまざまな予備的措置がパンフレットの出版を予告する形となった。10月26日にはサイバネティクス学者のモール*5(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第9号 44ページ参照)――ついに社会心理学の講座をものにして、若き管理職たちのプログラミングに専心しようとしていたのだが――がその最初の授業ののっけから10人程の学生の投げつけるトマトによって教壇を追われた(モールには3月にパリの装飾美術館でも同じ処置が取られた。この標準ロボットはそこで都市計画(ユルバニスム)の方法による住民のコントロールについてご託を並べようとしていたのである。彼を反駁したのは現代のあらゆる問題に対して革命的批判を加えようとしているグループに属する30人程の若いアナキストたちであった)。この開講授業がストラスブール大学の歴史でもモールその人と同じくらい新奇なものであったことは確かであるが、この事件からほどなくしてAFGESはパンフレットの宣伝としてアンドレ・ベルトラン*6による続き漫画「ドゥルッティ旅団の帰還」*7のビラ貼りを断行した。この漫画はベルトランの同志たちが自分たちの職務をどう考えていたかをはっきりと言い表している点で価値のあるものだった。日く、「老朽化した組合組織、左翼官僚主義の総体的危機は至る所で、とりわけ学生たちの中で感じられていた。ずっと以前から学生たちにとって直接行動の動機となるものは色槌せたイデオロギーへの極めてさもしい献身とまったく現実性のない野心しか残っていなかった。われわれの主人公たちを選出した専従組合員たちは一杯食わされたという言い訳さえできなかったのである。彼らが再生の望みを託したのは時代遅れの政治闘争をすべて早急に、またできるだけうまく停止させようという意図を隠さないグループにであったのだから」。
 パンフレットは大学の厳粛な新学期に、公職にある人物たちに唐突に配布された。時を同じくしてAFGESの執行部はその唯一の「学生」綱領が同組織の即時解散であることを発表し、それについて採決をとるために臨時総会を召集した。この展望が直ちに多くの者を慄然とさせたことは周知のことだ。「これは社会を直接破壌することを狙った反抗が初めて具体的なかたちをもったものであろう」と、ある地方紙(『デルニエール・ヌーヴェル』紙、1966年12月4日付)は書いた。そして11月26日付けの『ローロール〔曙〕』紙によれば、「シチュアシオニスト・インターナショナル、ヨーロッパの主要都市に若干の党員を数える組繊。このアナキストたらは革命家を自称し、「権力を奪取する」ことを望んでいる。しかし権力を奪取するのはそれを保持し続けるためではなく、無秩序を撒き散らし、自らの権威までをも破壊するためである」。さらにはトリノにおいても同日付けの「ガゼッタ・デル・ポポロ」紙が過度の不安を表明していた。「しかしながらもし万一報復措置がとられた場合(……)混乱を招く危険がないかどうか考慮する必要があろう。シチュアシオニスト・インターナショナルはストラスブールの信奉者たちが勝ち取った勝利で奮い立ち、パリやその他のフランスの大学都市で学生組織を配下に置くべく大攻勢をしかけようとしている。」この時点で新しい重要な要素に注意する必要があった。シチュアシオニストは新聞報道や知的流行に回収されることから身を守らねばならなかったのである。パンフレットは結局、SIの文書に変わってしまっていた。同志たちが体制に打撃を加えたいと望んでいるとき彼らを助けることを拒否しなければならぬとはわれわれは判断しなかったし、この援助は残念ながらそれ以下のものではありえなかった。このSIの参画によってわれわれはこの作戦の期間中、実質的(デ・ファクト)な指導役を努めることになったが、その役割をこの限られた共同行動の枠を超えて延長しようなどとは決して望んでいなかった。こう言っても誰も驚く者はいないだろうが、われわれにとって嘆かわしい学生階層などどうでもよいのである。この場合でもいつの場合でもわれわれはただ、現在形成されつつある新たな社会批判を、その唯一の土台である妥協なき実践によって表面化させるために行動しなければならなかったのある。ストラスブールの学生グループが十分に組織されていなかったことがシチュアシオニストの直接介入の必要性を生み、同時に秩序立った対話の実現さえ阻んでしまったのであるが、このような対話こそ決定において最小限の平等を保証することができたであろう唯一のものだった。通常独立したグループ間の共同行動を定めるものである議論は、SIを承認するという点においては団結しているがその他の点ではばらばらであることを常に示していた個人の寄せ集めの場合にはほとんど現実性を持っていなかったのである。
 このような欠陥のある状況が学生グループ全体に対するわれわれの評価を芳しいものにしたはずがないことは言うまでもない。言ってみればこのグループは自分たちの主張を確立しなくてもすむようにSIに多少とも合流することを望んでいたように見えたからである。ストラスブールの学生たちにまとまりが欠けていたことはまた、意外な問題について、われわれが予想もできなかったような度合いで既に表面化する機会があった。グループのうち何人かが大学の新学期のセレモニーで予告もなく文書を配ることに対して突然躊躇を覚えたのである。ハヤティはこの者たちに次のような訓示を与えねばならなかった。すなわち中途半端なスキャンダルを起こそうなどとしてはならないこと、またこの種の行為のただ中にあって、事件の反響を大きく広げないことによって(既に巻き込まれることを選んだのに)あまり巻き込まれないようになどという希望を持ってはいけないこと、逆にスキャンダルの成功こそがそれを故意に引き起こした者にとってむしろ安全を保証するものであること、である。さてかくも単純な戦略上のポイントについて後になってから躊躇すること、それ以上に認め難いのは互いに対してこれほど信頼のない者たちの中にわれわれの名を語って発言をする輩が出るに至った事態である。ムスターファ・ハヤティはこの時SIからの命でAFGES執行部のメンバーに彼らのうち誰一人としてシチュアシオニストではない、ということを11月29日付けのコミュニケにおいて明言させた。「われわれ執行部のメンバーのうち誰一人としてシチュアシオニスト・インターナショナル(少し前から同名の雑誌を発行している組織)の一員ではない。しかし彼らの分析と展望に対しわれわれは完全な連帯を表明した。」このような自律性が確認されたことに基づいて、SIはAFGESの委員長アンドレ・シュネデール*8、そして副委員長ヴェル=ピオヴァ宛に手紙を寄せ、その中で彼らの行動に対して完全な連帯を確認した。以来SIはこの連帯を常に維持した。執行部の責任者たちに対してやっかみ半分の敵意を示すことで(さらには彼らの行動が「スペクタクル的」だと愚かにもSIに告発することで)われわれに接近しようとした者たちとの対話を即座に拒否したのもその一例だし、その後の弾圧に際して経済的に援助し、公然と支持を表明したのも然りである(大学から除籍されたヴェル=ピオヴァに連帯して79人のストラスブールの学生が署名した4月初旬の宣言文を参照のこと。この処分は数ヵ月後取り消された)。シュネデールとヴェル=ピオヴァ*9は度重なる処分と恫喝に対して毅然とした態度を保ち続けた。しかし彼らのSIに対する態度はそこまで強固なものではなかった。
 ストラスブールでは直ちに司法弾圧が始まり──弾圧はこの開始を確証するかのようにその後一連の裁判という形をとって続けられ、まだ終わっていない裁判もある──、攻撃はAFGES執行部のいわゆる非合法性に集中した。この執行部はシチュアシオニストのパンフレットの発行以来、突如として学生の組合組織を簒奪した「名義だけの委員会」と見なされるようになったのである。AFGESに対する市民(ブルジョワ)とスターリン主義者と司祭たちの神聖同盟が同市の1万8千人の学生の中で目に見えるかたちで掌握していた「勢力」は執行部のそれより少なかったものだから、なおさら司法弾圧が必要だったのである。弾圧は12月13日付けの裁判所の略式決定、学生同盟の活動場所と管理権を接収し、AFGESの解散を採決するために執行部が16日に召集した総会を禁止する決定によって始まった。この判決は、学生たちが投票したとしたら過半数は執行部の立場を承認してしまう惧れがあったこと(実際にはそんなことはなかったろうが)を暗黙のうちに認めるものだが、事件の進行を凍結することによって結果的にそれはわれわれの同志たち(その唯一の計画は自分たちの指導的立場を精算してしまうことであったのだが)が1月の末まで抵抗を延長せざるをえない事態に引き込んでしまった。それまで執行部はインタヴューを求めて駆けつけた大勢のジャーナリストを大変うまくさばいていた。そのほとんどは拒否し、最悪の組織(フランス・テレビ、「プラネット」誌)から派遣された者たちは侮蔑的にボイコットしたのである。こうしてマスコミの一部は事件のより正確な報道をすることになり、またAFGESの声明もより忠実に採録されることになった。AFGESの名義上(イン・パルティプス)の執行部は全国学生共済組合〔MNEF〕*10の地方支部の管理を保持していたので、行政措置に対抗するために1月11日この支部に属していた「大学心理相談所」(BAPU)*11の閉鎖を決定し、翌日直ちにこれを実行した。「BAPUとは学生階層における抑圧的精神医学による警察式コントロールを実現したものであり、その機能は明らかに(……)あらゆるカテゴリーの被搾取者の受動性を維持することであって(……)、BAPUがストラスブールにあることは自由に思考する決意をしたこの大学の学生たちにとって恥辱であり脅威であると考え」たからである。全国的なレヴェルに目を転じると、それまで模範的と思われていたストラスブール支部の反逆によってUNEFは自らの完全な破綻を認めざるを得なくなったが、UNEF反対派となった同支部の自由が当局によってこれほどあっさりと拒否されていたのである以上、組合活動の自由などという古ぼけた幻想を守ろうとまではしなかった。しかしそのUNEFもさすがにストラスブール執行部の司法的排除を容認することはできなかった。そこで1月14日にパリで開かれたUNEFの総会にストラスブールの代表がやって来たが、彼らは自分たちが提出した全UNEFの解散動議の予備採決を開会早々要求した。その理由は「UNEFが青年層の前衛を結集する組合として確立された(グルノーブル憲章、1946年 )のは既に労働組合運動が敗北して、労働者階級を商業システムに取り込もうとする現代資本主義の自己調整機関となって久しかった時期に対応していること、(……)UNEFは自らを前衛と主張しているがその似非改革的指令と実践がまさにその主張を否定していること、(……)学生組合運動とは純然たる欺瞞であって即刻終結させるべきであること」というものだった。この動議は「世界中の革命的学生」に対し、「〈労働者評議会〉の国際的権力の到来に貢献するために、彼らの国のすべての被搾取者とともに旧世界のあらゆる側面に対する仮借のない闘いを準備するよう」という呼びかけで結ばれていた。この前提条件が全国指導部の運営報告に関する質疑の前に討議されることにストラスブールとともに賛成票を投じたのはナント学生自治会と「療養所内学生」自治会の2つの組織だけだった(と言っても総会に先立つ数週間のうちにUNEFの若き官僚主義者たちはAFGESの立場に自発的に賛意を表した2つの自治会執行部──ボルドーとクレルモン=フェラン──の意見を変えさせることに成功していたことを記しておかねばならない)ので、ストラスブールの代表団は直ちに会場を後にした。討議で他に言うべきことはなかったからである。
 しかしながらAFGES執行部の最終的な退場はそれほど威厳のあるものにはならなかった。この時点で3人のシチュアシオニスト*12が除名されていた。彼らは共謀してハヤティを標的にした虚偽の中傷をいくつも行い、SIの前で自白に追い込まれていたのであるが、彼らはこの見事な策略によってハヤティ自身を除名させようと企んでいたのである(1月22日付けのSIのビラ『注意! 3人の挑発者が』*13を参照のこと)。彼らの除名はストラスブールのスキャンダルとは何の関係もなかった(この件でも、他のあらゆる場合でも、彼らはSIの討論の結論をこれ見よがしに承認していた)が、偶然その内2人はアルザス地方の人間だった。一方、既に述べたとおり、ストラスブールの学生のうちには、自分たちに欠点があるとしてもSIが彼らを採用することでそれを埋め合わせることをしないのはけしからぬと考える者もいた。除名された嘘つきどもはこの者たちが何でも鵜呑みにするものだから、内輪なら今までの嘘も隠し通せるし、自白してしまったことは嘘を一層エスカレートさせることでごまかせると思った。こうして拒絶された者たちが、自分たちを断罪しているこの実践を乗り超えるのだという神秘的な思い上がりのもとに全員集合したのである。彼らは新聞の書いていることを信じ始め、それに尾ひれをつけたりさえした。彼らは自分たちを一種のストラスブール・コミューンにおいて真に「権力を握った」大衆のように見なした。彼らは自分たちが革命的プロレタリアートにふさわしい仕方で扱われはしなかったと思った。彼らは自分たちの歴史的行動が以前のあらゆる理論を乗り越えたと確信した。この種の事件において判別しうる唯一の「行動」はせいぜい文書の執筆だということを忘れて、彼らはこの点における不足を集団で手品をエスカレートさせることで埋め合わせしたのである。要するに何週間か一緒に夢をみていたにすぎないわけで、そのために慌ててインチキを繰り返し、その都度このインチキという麻薬の量を増やしていったのだ。スキャンダルを実際に支持したストラスブールの12人ほどの学生たちは6人ずつに分裂してしまった。付随的と思われていた問題が啓示的な働きをしたわけである。当然のことながらわれわれは「SIの支持者」としてとどまった者たちへ将来のことで約束することなど何もなかったし、そんなことはいかなる程度においてもしないとはっきりと述べておいた。彼らになしえることは、無条件に、真理の支持者となることだけだったのに、ヴェル=ピオヴァその他は「ガルノー派」*14の除名者たちとともに嘘の支持者となったのである(と言ってもフレー*15やガルノーたちの手になる最近のあまりにもお粗末な例のいくつかを知らずにであったことは確かだろう。だが、かなりの数は知っていたはずだ)。嘘つきどもはAFGESの委員長の肩書きを持つアンドレ・シュネデールの支持を望んでいたのだが、彼は皆から誤った情報をつめこまれた結果、うかつにもよく調べずにそれを信じてしまい、嘘つきどもの宣言の1つに連署してしまったのである。だが幾日もたたぬうちに、嘘つきどもが自分たちの間違った主張を守るため事情を知っている者たちの間では平然と口に出すまごうかたない嘘のいくつかに自分で気付いたので、シュネデールは自分の最初の行動は誤りであったことを公言するべきだということを一時も疑わなくなった。「死者の家の記録」というビラによって、彼は自分をだましてSIに対する偽証の責任を共有させた者たちを告発した。シュネデールは嘘つきどもにその性格を過小評価されていたわけだが、自分たちにとって都合の悪い事実に対して彼らが行った集団操作のなりの果ての特権的な証人となっていたのである。ストラスブール当地においても、このシュネデールの豹変は、既に至るところで信用を失っていた除名者とその共犯者たちに致命的な一撃となった。哀れにも彼らは前の週シュネデールのお墨付きを得るためにあれほど努力したにもかかわらず、悔しさのあまり、シュネデールが低能であることは周知のことで、彼はただ単に「SIの威光」に屈したのだ、と公言してはばからなかった(近時ますます頻繁に起こることであるが、さまざまな討議の場において「SIの威光」が嘘つきどもによって不器用にもこうして単に真実を言うという事実と同一視されている。この混同がわれわれにとって名誉であることは確かである)。3週聞が過ぎる前にフレーとその一味がヴェル=ピオヴヴァや頼みに頼まれたあげくに彼らを支持してくれることになった者たち(8、9人にのぼった)と同盟を結んだことは、まさに彼らの悲しき現実を白日の下に晒すこととなった。互いのことを不器用な嘘つきと見なしあっている輩によって幼稚な嘘の上に築かれたこの同盟は、まさにいかなる場合にも犯してはならない類の(そしていかなる場合にも付き合ってはならない者たちとの!)「集団行動」というものがはからずもパロディーとなって示されたものであった。彼らはストラスブールの学生たちの前でそろって滑稽な選挙キャンペーンをはったのであった。シチュアシオニストの概念や文章の名残もどきのペダンチックな残骸が、何十ページにもわたって、滑稽であることに全く気づかないまま使われていたのだが、その唯一の目的とは4月13日に再選をめざすヴェル=ピオヴァのミクロ官僚主義の基盤であるMNEFのストラスブール支部に「権力」を保持しておくことであった。今回も前の策略と同様不成功で、おまけに彼らは自分たちと同じくらい馬鹿な(そして当然ながらより一層当選第一主義である)スターリン主義者とキリスト教徒たちに敗れたのであった。あまつさえ勝者は彼らの嘆かわしいライバルたちをご丁寧にも「偽のシチュアシオニスト」として告発したのである。翌日発行された「SIは君たちにそれをはっきりと言っていた!」というビラでアンドレ・シュネデールとその同志たちは、5ヵ月前に起きたスキャンダルの残り物を宣伝に使おうという試みの失敗が、いかに当時主張されていた精神と展望を完全に否認するものであるかを難無く示してみせた。ヴェル=ピオヴァは4月20日に配られたコミュニケの結びでこう宣言していた。「自分がやっと「シチュアシオニストでない」として非難されることを喜ばしく思う。それはSIが公式の権力を自任するようになって以来、常に私が公然と宣言してきたことである。」ここに今では忘れられてしまった大仰な作り話(リテラチュール)の十分な見本がある。SIが公式の権力になったということ、これこそヴェル=ピオヴァやフレーの典型的な主弧の1つであるが、興味のある向きはこれらの主張を調べてみられるがよい。その結論としてこのような理論家たちの知性をどう考えたらいいのか、ということも分かるであろう。それは置くとして、ヴェル=ピオヴァが──「公然と」、あるいは「密かに」とでもいうべきだろうか、それが彼の虚言の一番直接的な共犯者たちに対する「宣言」だとすれば──われわれが「公式の権力」となって以降──それがいつからなのかは彼に決めさせるとして──SIの一員ではないと宣言していること、これこそ典型的な嘘である。彼を知る者は誰でもヴェル=ピオヴァが自分は「シチュアシオニストでない」ということ以外のことを言う機会は決してなかったということを承知しているからだ(1966年11月二29日付けのAFGESのコミュニケに関してわれわれが右に書いたことを参照)。
 栄光ある権威に従属することを求める新種の政治運動から何が出てこようと、われわれが一切そのようなものを加入させないということ、それを上の例はまたしても都合よく示してくれたわけだが、無論のこと事件全体の結果としてはこれよりずっと喜ばしいことがある。同様に軽視してはならないのは、UNEFが取り返しのつかぬほど崩壊していること、その哀れな外観から想像するより崩壊がずっと進んでいることを確認させた、という側面であると言える。このとどめの一撃は7月のリヨンにおける第56回大会でもなお鳴り響いていた。会議中、議長ヴァンダンビュリーは悲しそうにこう認めざるをえなかった。「UNEFの統一性ははるか以前になくなっている。各団体は全国執行部の指令にまったく準拠することなく、自律的に存続して〔=生きて〕いる(SIの注──この動詞は不適切で、思い上がりもはなはだしい)。下部組織と指導機関との間のズレはますます広がり、非常に悪化した状態に達した。UNEFの上層部の歴史は危機の連続である(……)。組織を作り直し行動を再開することはできなかった。」同じくらい滑稽なのは、この今日的な現象に関して今一度署名運動をしなければならないと考えた大学教員たちが起こした動きである。ストラスブール大学文学部の40人の教授と助手は、偽学生たちを「解決の影すらない」偽の問題をめぐるこの「井戸の中の騒ぎ」のそもそもの原因であるとして、告発したのだが、こうして表明された立場をナンテールの「人文科学」の講座にパンくずをかじりに集まっている制度主義者のモダニストの残党のうちの何人か(大胆なトゥレーヌ*16、忠実なルフェーブル、親中国派のボードリヤール*17、巧妙なルロー*18)が2月にその資格がないにもかかわらず賛意を示そうと試みたごますり的態度と比べれば、前者がより論理的で社会的にみてもより理性にかなったものである(ラブドール判事の判決理由も理性にかなったものだが)とわれわれが判断していたことは容易に理解していただけるであろう。
 われわれが望んでいるのは実は思想が再び危険になることなのである。サルトルアルチュセール*19アラゴンゴダールの類の折衷的で偽の関心しかない軟弱な者たちにはわれわれを許容するなどということは断じてできないだろう。リュイリエという名の大学教授が述べた意味深い言葉(12月21日付けの「ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌で伝えられた)を記しておこう。「私は思想の自由には賛成である。だがもしシチュアシオニストたちがこの部屋にいるなら、出て行くように。」表面的な真理のいくつかを流布させることが、遅れているフランスの青年層に社会が遠からずより全体的な危機を迎えるのだということを自覚させる運動、そうした運動をほんのわずかでも加速させる点で有用だということをまったく無視するわけではないが、問題を明確にするための要素としてこの文書をこのような過程が既にずっとはっきりと顕在化している国々で流布させることははるかに重要であると考える。イギリスのシチュアシオニストたちはハヤティのテクストの英訳版の前書きにこう書いた。「現代生活に対する最も高度に展開された批判は現代諸国の中でも最もその発展の度合の低い国、あらゆる価値の完全な崩壊が明らかになることに付随して根源的な拒否を唱える勢力を生み出す段階にまだ達していない国において提示された。フランスの文脈においては、シチュアシオニストの理論はその実現を担うであろう社会勢力に先行したのである。」「学生生活の貧困」の中の主張はアメリカ合州国やイギリスにおいてはるかに現実的なこととして聞き入れられた(3月のロンドン・スクール・オブ・エコノミックス*20のストがかなりの印象を与えたらしく、「タイムズ」紙の解説者はもう終わったと思っていた階級闘争の再来を悲しげにそこに見出したのだった)。程度の差こそあれ、事情はオランダでも──そこでは、Slによる批判が事件それ自体によるより赤裸々な批判と一致して「プロヴォ」運動の最近の解散に影響を与えた──スカンディナヴィア諸国でも同様であった。今年の西ベルリンの学生たちの闘争*21もまだ非常に曖昧な意味でではあるがそこから何かを汲み取ったものといえる。
 だが無論のこと革命的青年層の取るべき道は労働者大衆との合体しかないのであって、労働者たちは搾取の新たな諸条件を経験することから出発して、彼らの世界を支配するための、労働の消滅のための闘争を再開することだろう。現代社会の土壌からいたるところで自然発生してくるこの本当の運動の現在における理論形態を青年層が知り始めるとしても、それはこの統一された理論的批判が十全なる実践的統一と一体化することで、沈黙を破り分離の全面的組織化を打破しようと努力する歩みにおける一契機にすぎない。この意味においてのみわれわれは結果を満足すべきものと考える。この青年層からわれわれはもちろん大学教育という半特権に与る疎外された少数派を除外する。大学こそ偽りのシチュアシオニスト理論を最新流行のスペクタクルとして有難く消費するための当然の基地なのである。われわれはこれからもこの種の称賛を裏切り、否定していくだろう。われわれが登場するいくつかの示威行動の表面的にスキャンダラスな面においてではなく、本質的にスキャンダラスであるその中心的真理においてSIが判断されなければならないことが分かるであろう。

*1:「学生生活の貧困」 正確なタイトルを「経済的、心理的、性的、とりわけ知的側面から考察した学生生活の貧困およびそのいくつかの治療法について」と言い、1967年11月にフランス全学連(UNEF)の支部であるストラスブール学生総連合会(AFGES)が、UNEFの資金を流用して発行。「学生生活」の原語は milieu étudiant で「学生環境」、「学生階層」とも訳せるが、語感の良さなどを考慮して「学生生活」と訳した。執筆者はSIのムスターファ・ハヤティ。初刷1万部が2ヶ月で売り切れ、67年3月に第2刷1万部、さらに第3刷1万部もたちまち売り切れ、フランス各地の学生の間で争って読まれ、68年5月革命を準備した。この本の翻訳はイタリア(67年12月)、スウェーデン(67年)、英国(67年)、米国(67年12月)、ドイツ(68年)、日本(日付なし、おそらく68年)、スペイン(69年)、ポルトガル(70年5月)などで行われ、計30万部近くが出版された。本書の記事「われわれの普及について」を参照。

*2:フランス全学連(UNEF) National des Etudiants français を直訳すれば「フランス学生全国連合」だが、従来から「フランス全学連」と訳さることが多いので、ここでもその訳を用いた。1907年にリールで設立(設立時の名称は「フランス学生総協会全国連合」)。50年代末から60年まではアルジェリア反戦運動の中で学生の支持を得て、60年春にFLNの学生組織アルジェリアムスリム学生総連合(UGEMA)と連携、秋には10月26日の大規模な反戦デモを組織するなどして、フランスの反体制運動をリードした。アルジェリア戦争終結後の混迷の中で62年に方針を転換、政治闘争から離れて63年から66年まで「組合主義左翼」の方針で活動したが、改良主義的戦術は有効に機能せず急激に組織率が落ちた(60年に学生の2分の1を組織し加盟者10万名を数えたのが、65年には5万名、67年には3万名、68年5月革命直前には。1万名程度)。しかし、67年から68年にかけて、執行部が変わり、ヴェトナム反戦運動や学生選別機構としての大学批判によって息を吹き返し、68年5月革命の進展の中で一定の役割を果たした。

*3:AFGES ストラスブール学生総連合会の略称。フランス全学連(UNEF)の地方支部(AGE)の1つ。1966年5月の総会での抜き打ち選挙で、UNEFの改良主義に批判的でSIのシンパの学生グループが執行部に選出された。

*4:ムスターファ・ハヤティ チュニジアのシチュァシオニスト。64年ごろからフランス・セクションで活動。『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第10号、第11号、第12号の編集委員を務め、同誌に「低開発国での革命についての世論の誤りを修正するのに役立つ貢献」(第11号)を掲載、67年の〈ストラスプールのスキャンダル〉では、U NEFに対する反乱を起こしたAFGESの学生たちのために『学生生活の貧困』を執筆し、69年5月革命の最も早いきっかけを作った。69年9月に、ヴェネツィアで開催されたSI第8回大会で、SIの構成員規約が変更され、二重加盟が禁止されたため、PFLPとの関わりを問題にされたハヤティは、69年10月1日付けの書簡でSIに全面的な連帯を表明して、自らは「アラブ地域で発展しつつある革命的危機」に身を投じることを宣言してSIを脱退した。

*5:アブラハム・A・モール(1920−) フランスの社会学者、現代音楽理論家。フランス内外の多くの大学で社会学情報理論、芸術論などを教えながら、音響芸術論などの分野で多くの著作を著し、現代音楽や言語芸術に理論的影響を与え、自らもサイバネティクスを応用した彫刻などを作っている。著作に『騒音の物理学』(1952年)、『情報理論と美的知覚』(58年)、『実験音楽』(60年)、『都市社会の張り紙』(69年)、『芸術とコンピュータ』(70年)、『空間の心理学』(78年)など。モールは、1966年以来、ストラスブール大学のコミュニケーション社会心理学研究所の所長を務めたが、その際にはシチュアシオニストらから教室でトマトを投げられて開講講義を開けなくされたという経歴を特つことでも知られる、「サイバネティックス研究者との往復書簡」を参照。

*6:アンドレ・ベルトラン SIの正式メンバーではないが、66年から68年にかけてのフランスの学生運動のなかで、シチュアシオニスト・スタイルの転用コミックやコミック形式のビラを数多く手がけ、それらがストラスブール、ナンテール、ソルボンヌなどの大学キャンパスで撒かれた。

*7:『ドゥルッティ旅団の帰還』  アンドレ・ベルトランの製作したコミック形式のピラで、全4頁から成る。内容は、UNEFの組合官僚主義を批判し、新しい行動を起こすよう学生に訴えるもので、シチュアシオニストのミシェル・ペルンシュタインの転用小説『王さまのすべての馬』や、既存の漫画やイラストを巧みに転用して用いている。『66年10月』」の日付があり、この時にストラスブール大学で撒かれた後、ナンテールでも配付された。

*8:アンドレ・シュネデール AFGES委員長。ストラスブール大学のSIシンパとして「ストラスブールのスキャンダル」の中心人物となった後、どうなったかは不明。

*9:ヴェル=ピオヴァ AFGES副委員長。ヴェル=ピオヴァはこの後、ガルノーらと行動を共にしたようだが、詳しくは不明。

*10:フランス全国学生共済組合〔MNEF〕 フランス全学連(UNEF)とは一応は別の学生組合組織で、執行部は選挙で選ばれ、大学施設(食堂、バー、休暇施設、印刷施設、学生診療所など)を運営する任を負っている。

*11:「大学心理相談所」(BAPU) 精神的問題を持つ学生の相談・治療にあたる機関で、MNEFが経営を任されていた。

*12:3人のシチュアシオニスト テオ・フレー、ジャン・ガルノー、エルベール・オールのこと。ストラスブールで活動していたが1967年1月15日に分派活動と虚言により除名。本書433ページの記事「最近の除名」を参照。

*13:『注意! 3人の挑発者が』 1964年1月二22日にSIがストラスブール掲示したビラ。テオ・フレー、ジャン・ガルノー、エルベール・オールの3人をSIから除名した経緯か書かれている。左の訳注「ガルノー派」を参照。

*14:ルノー ジャン・ガルノー、テオ・フレー、エディット・フレー、エルベール・オールら、ストラスブール出身のシチュアシオニスト。1967年1月15日にSIを除名。481ページ「アルザスイデオロギー」の訳者改題を参照。

*15:テオ・フレー  フランスのシチュアシオニストストラスブールで活動したが、「ストラスブールのスキャンダル」以降、ジャン・ガルノーらと分派活動を行ったため1967年1月に除名。

*16:アラン・トゥレーヌ(1925− ) フランスの社会学者。45年にエコール・ノルマル・シュペリウールに入学後、1年間、鉱山で働いた経験から社会学を志し、卒業後50年にジョルジュ・フリードマンの影響でCNRSの社会学研究センターに入り、自動車工場ルノーやフランス内外の鉱山労働者の社会学を始める。60年に高等研究所の主任研究員になり、雑誌『労働の社会学』を創刊、高度資本主義社会での労働者階級と階級闘争の変質について積極的に発言し出し、『アルギュマン』誌、『社会主義か野蛮か』誌などに協力して「新左翼」の社会学者として注目される。1966年からパリ大学ナンテール分校の社会学部の教授となり、68年3月までのナンテールの闘争に対しては弾圧側に回り、68年5月革命では労働者本隊のストだけを評価してソルボンヌやオデオンの占拠は批判した。著書に『労働者意織』(66年)、『5月の運動、あるいはユートピア共産主義』(68年)、『社会の生産』(73年)など。

*17:ジャン・ボードリヤール(1929−) フランスの社会学者。1966年にパリ大学ナンテール分校の社会学部の助手になり、以後、そこで出世して教え続ける。66年から68年にかけてナンテールの社会学部で始まった学生の闘争においては、社会学部のアンリ・ルフェーヴル。アラン・トゥレーヌのもとで、大学当局と学生との間の仲介役として動いた。著書に『モノの体系』(68年)、『生産の鏡』(73年)、『象徴交換と死』(76年)。『湾岸戦争は起こらなかった』(91年)など。

*18:ルネ・ルロー フランスの社会学者、66年、元〈社会主義か野蛮か〉のメンバーのイヴォン・ブールデ、ダニエル・モテとともに『オートジェスチオン〔自主管理〕』の編集委員を務め、ラパサードの唱える「制度分析」を自らも行う。著書に『制度分析』(70年)、『教会の分析──制度分析とキリスト教界』(72年)、『自主管理に関する問い』(79年、共著)など,ルフェーヴルの大著『総和と余剰』(1989年版)に序文も書いている。

*19:ルイ・アルチュセール(1918−90年) フランスのマルクス主義哲学者。1948年にエコール・ノルマル・シュベリウールの講師となり、同時に共産党に入党。60年代からマルクスの方法的読解によるマルクス主義理論の独自の再解釈を発表、65年にマスペロ書店から『マルクスのために』と『資本論を読む』(ピエール・マシュレー、ジャック・ランシエール、エチエンヌ・バリバール、ロジェ・エスタブレとの共著)を出版するや、マルクス主義者から構造主義のさまざまな思想家に影響を与えた。若い頃から精神の病を抱え、そのため48年以降エコール・ノルマル・シユペリウールの近くの自宅と学校、そして病院の往復の生活だったが、80年に発作的に妻を殺害、精神病院に収容され90年に死去した。

*20:ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス イギリスのロンドンにある社会科学系の大学でイギリス経済界・法曹界・政界、労組などに多くの指導者を輩出。1966年10月に、新学長ウォルター・アダムズが任命されたが、アダムズはそれまでローデシアのソールズベリーで教えていたため、ローデシアのイアン・スミス人種主義政権との癒着を問題にした学生グループがビラを配布して決起した。10月21日、学生組合は満場一致でアダムズが嫌疑をはらす証明をしない限り学長就任に反対するという決議を行ったが、アダムズがそれを無視したため、学生側は大学当局の一方的な姿勢に抗議、学生−当局合同委員会の設置などを求めて闘争を拡大、ストライキを行った。67年1月にはスト中の学生600名が大学ホールの前で集会をしようとしたが、当局は「学生には何の権利もない」と言うだけなど、高圧的態度を崩さなかった。

*21:西ベルリンの学生たちの闘争 60年代の西ドイツでは、社会民主党(SPD)から分かれ過激化したドイツ社会主義学生連盟(SDS)に結集するさまざまな新左翼の学生組織や学生たちが、教育体制批判に基づく自主講座などの「批判大学」運動、反帝闘争、第三世界連帯運動などを展開し、西ドイツの反体制運動をリードして67年ごろには西ドイツ唯一の社会批判勢力となっていた。67年7月2日、SDSは西ベルリンで、イラン王政の抑圧体制に抗譲するデモを組織し、警官の激しい弾圧によって1名の学生が死亡するという事件が起きている。この事件に対して、西ドイツ中の新聞がSDSの学生を非難し、世界的にも大きな注目を浴びた。ここで言われている「西ベルリンの学生たちの闘争」とはこの事件を指すものと思われる。SDSは、毛沢東派、トロツキストマルクスレーニン主義者、フランクフルト学派の支持者などさまざよな思想傾向の者たちの集まりで、大学内の要求闘争やシット・インから反帝街頭闘争までさまざまな闘争戦術を取りながら、統一的な西ドイツ社会批判路線を打ち出せないでいた。