『ストラスブールのスキャンダルにおけるわれわれの目的と方法』 訳者解題


 ここに「ストラスブールのスキャンダル」としてその経緯が詳しく述べられている事件は、68年フランスの「5月革命」の歴史を扱ったほとんどすべての書物で、60年代末のフランスでの学生反乱の最も早い現れであり「5月革命」の内容と手法を先取りする先駆的出来事として紹介されている事件である。
 「5月革命」の約1年半前、1966年11月に起きたこの事件は、簡単に言うなら、フランス全学連(UNEF)の組合主義的官僚主義と体制迎合的な時代遅れの運動方針に不満を感じていたストラスブール大学の学生たちが、UNEFのストラスブール支部(AFGES)の執行部に立候補して選出され、UNEFに対して反乱を起こした事件である。しかし、UNEFの解散を求めるその戦術内容、コミック形式のビラを配付して注目を集めたり学生管理施設「大学心理相談所」を閉鎖するという直接行動を行ったりというその闘争戦術、学生の置かれた環境をまったく新しい観点から鋭く批判するパンフレット『学生生活の貧困』に書かれた主張のどれをとっても、それまでのフランスの学生運動のレヴェルを大きく踏み越えたものだった。それゆえ、彼らの闘争は、単にUNEFの内部闘争の域を出て、広くフランス中の注目を集めることになった。そして、こうした彼らの闘争のスタイルと主張は、シチュアシオニストの「影響」を強く受けたものだったことから、この事件はシチュアシオニストが仕掛けたスキャンダルとしてマスコミにさまざまに書き立てられることになった。SIが実際にこの「ストラスブールのスキャンダル」にどういう形で関わり、彼らがこの出来事をどう評価しているかは、このテクストを読んでもらうとして、この「事件」そのものがどういう経緯で進展したか、パスカル・デュモンティエの『シチュアシオニストと68年5月』( Pascal Dumontier, Les situationnistes et mai 68, Ed, Gérard Lebovici, 1990)に、全体の流れをもう少し詳しく整理して書いておく。
 まず、事の発端は、66年5月14日に、現状に不満を持ち過激な意見を公言して知られていたストラスブール大学の6名の学生が、U NEFの組織率の低迷と活動家の減少に乗じて、自らU NEFストラスブール支部であるストラスブール学生総連盟協会(AFGES)の自治会選挙に立候補して執行部に選出され、委員長(アンドレ・シュネデール)と副委員長(ブリュノ・ヴェル=ピオヴァ) の席を押さえたことから始まる。その夏、彼らは、U NEF批判を形のあるものにするために、パリのシチュアシオニストと間接的に──友人を介して──接触して相談し、パリのSIメンバーのムスターファ・ハヤティの示唆によって、学生の置かれた環境の貧しさを告発しU NEFの官僚主義を批判するパンフレットを作ることを決定する。そして、ハヤティの執筆した『学生生活の貧困』(正確には「経済的、政治的、心理的、性的、とりわけ知的観点から考察された、学生生活の貧困と、そのいくつかの治療法について』 De la misére en milieu étudiant considérée sous aspects économique, politique, psychologique, sexuel et notament intellectuel moyence pour y remédier というタイトルだが、省略してこのように、言われる)の原稿を自分たちでも検討した後、AFGESのパンフレットとして──当然、U NEFから下りていたAFGESの活動資金で──印刷し、新学期の始まりとともに大学で配付する計画を立てるのである。
 10月の後半に新学期が始まると、ま10月26日に、AFGES執行部の学生とは別のシチュアシオニストのシンパの学生たち10数名が、「サイバネティクス学者」で63年に自らの個人的野心からSIと接触しようとして厳しく拒絶されたアブラハム・モール(参照)の「社会心理学」の開講講義に押し寄せ、モールにトマトを投げ付けて教室から追放するという事件が起きる。また、11月の始めには、執行部の1人アンドレ・ベルトランがシチュアシオニストの手法を用いて製作した転用コミック形式のビラ『ドゥルッティ旅団の帰還』が、「ストラスブール「学生」総連盟協会(AFG”E”S)の名で、学内のいたるところに張り出され、UNEFの官僚主義とともにトロツキストマルクスレーニン主義者からアナキストまでの既存の新左翼諸党派の無能さをからかうその主張と、コミックというそのまったく新しい形式によって、学生たちの間に何か新しいことが起き始めるという騒然とした雰囲気を作り出してゆく。同時に、そのビラで「学生生活の貧困」の発行も予告する。そして、11月16日には、今度はAFGESの機関紙「ヌーヴェル〔ニュース〕」が発行され、オランダの〈プロヴォ〉 の運動を批判する論文や、米国のワッツ暴動やハンガリー蜂起を讃える記事、UNEFの組合主義戦略を批判する記事、日本の「全学連」を支持する論文などを掲載し、新執行部の姿勢を鮮明に打ち出してゆく。
 こうして、いわばお膳立てが整ったところで、11月22日、AFGESは行動に移る。まず、その日、ちょうど新築された大学ホールの開会セレモニーにAFGESも学生代表として招待されていたことを利用して、そのセレモニーの場所に居合わせたストラスブール全市からの権威筋の人物(大学総長から、知事、司教、将軍まで)に対して「学生生活の貧困」を配付する。そして、翌23日には、大学食堂の前で、学生たちにも同じものを大量に配付すると同時に、記者会見を開き、ストラスブールの地方紙3紙の記者を前に、AFGES委員長のアンドレ・シュネデールが自分たちの行動提起をコミュニケにして発表する。この行動提起とは、学生の新しい欲望にも社会の新しい問題にもまったく対応できず、逆に闘争を押しとどめる官僚組織になっている学生組合の存在自体を無意味なものとし、AFGESの解散を求めるという内容だったため、翌々日の25日には地方紙だけでなくパリの新聞までがこれを大きく取り扱い、一挙に「ストラスブールのスキャンダル」として「事件」化するのである。その日の新聞の見出しは次のようなものである。「ウルトラ・革命家たち」(『フランス・ソワール』紙)、「一掃をお願いする! ストラスブール学生組合、ビートニクの「シチュアシオニスト」の手に落ちる」(『ル・ヌーヴェル・アルザシアン』紙)、「夢想家アナキストがUNEFの支配者になった」 (「ローロール」紙)、「『シチュアシオニスム・インターナショナル』、ストラスブールの学生たちの間で権力を取る」(「ル・モンド」紙)、「「ビートニク」がストラスブールの学生組合の権力を手にする──法的措置が取られる模様」(『フィガロ』紙)。
 こうしてマスコミがAFGESとシチュアシオニストを同一視し、「左翼過激派(ゴーシスト)」のSlが学生をたぶらかしてAFGESを乗っ取ったというデマゴギーを流してSlを攻撃してきたことに対して、ムスターファ・ハヤティは、AFGESの執行部に権力の不要な介入を避けるため真実を述べるよう申し入れ、AFGES執行部はそれに応じて、29日、自分たちはSlの「分析と展望」には完全に賛同しているが、誰一人としてSlのメンバーではないという内容の声明を発表する。一方、AFGESの打ち出したUNEF解散──具体的にはUNEFの支部であるAFGES自身の解散──という行動提起を実行に移すために、執行部は、12月16日にAFGES臨時総会を開催することを決定し、その準備を始める。この動きに対して、『フィガロ』紙が危惧、というよりむしろ期待していた「法的措置」は、大学の側からはすぐには取られなかった。大学総長モーリス・バイヤンは27−28日の「パリ・プレス」紙のインタヴューに答えて、AFGESの「ミニ−プロヴォ」で「ミニ−ビートニク」の学生たちはストラスブールの学生の「ミニ−マイノリテイ」しか代表しておらず、彼らの問題は「精神医学の管轄」だとか、AFGESは選挙で過半数を得たが、その選挙は非合法のものだったに違いない(証拠はないが)と述べて、この問題についての調査を開始したことを明らかにしている。また、大学の教師の多くも、総長と同じ側に立ち、シチュアシオニストを攻撃する意見を教室で公言していた。しかし、結局、12月5日に開催された大学評議会は、選挙の不正を確認できなかったため、AFGES執行部の学生たちの処分は行わない決定を出さざるをえなかった。
 この決定に対して、フランス共産党の学生組織UEC(共産主義学生同盟)は大学当局の姿勢に不満を表明し、AFGES執行部を非難し、UNEFを支持する声明を発表した。UNEFの全国執行部も、チユアシオニスト系の学生から権力を奪い返し、AFGES解散を回避するため、再選挙を呼びかける運動を準備し始める。AFGES執行部への攻撃の最先頭に立ったのは、AFGES同好会(UNEFの旧多数派──共産党系──に近い立場で、現在のUNEFには加盟せず、AFGESと連携を取りながら学生親睦会としての組織を各学部──法経学部商学部、薬学部、歯学部、政治学部、医学部、体育系の学部など──で形成している学生たち)である。彼らは、法学部で記者会見を開き、シチュアシオニストによる学生組合解散を阻止するためAFGESへの法的措置を求める行動を採り、執行部を罷免する動議を提出し、臨時執行部を設立する計画を明らかにする。彼らは、5月の選挙は、仝同好会が投票に参加したわけではなかったため、無効であると主張したのである。この主張に対して、AFGESは、自分たちはUNEFの支部なのだから、UNEFの会費を払っていない同好会には、AFGESの方針に賛否の投票をする権利はないという、当然の反論を行って、12月16日の総会にはUNEFの会員証を持つものだけが、AFGES解散の議案への投票権があることを確認した。AFGESの内部に介入できなくなった同好会は、AFGESの旧執行部で現在は副市長など市の要職についているOBの力を借りて、12月7日、ストラスブール大審裁判所の裁判長に急速審理(日本の行政処分に相当する)を求める訴えを起こす。12月13日に裁判所の決定が出て(本書415ページにその一部が掲載)、AFGESを法的機関の管理下に置くこと、12月16日の総会を停止すること、学生組合の建物を仮処分に付し、立ち入り禁止にすることを命令した。AFGESはすぐに異議申し立てを行ったが、裁判所はわざとその受け入れの決定を遅らせ、最終的に翌67年の4月13日に却下を決定した。この裁判所の命令を無視して、12月16日の総会は開催され、約400名の学生が集まった。AFGES解散の議案は結局、投票されなかったが、少数派の共産主義学生同盟(UEC)(フランス共産党の学生組織)が提出したAFGES執行部非難動議も却下され、裁判という姑息な手段に訴えた9つの同好会への非難決議だけが投票に付され採択された。
 新年の休みが明けて、67年1月10日に、ストラスブールのSIメンバーのジャン・ガルノー、テオ・フレーと、AFGESのシュネデール、ヴェル=ピオヴァの連名のビラ「でもこれは始まりにすぎない」が大学の壁に貼り出され、シチュアシオニストがAFGES以外の部門でも登場することを告げる。その部門とは、大学施設(食堂、バー、休暇施設、印刷施設、学生診療所など)を運営するフランス全国学生共済組合(MNEF)のことで、ヴェル=ピオヴァがMNEFストラスブール支部の管理委員会委員長を兼任していたことを利用して、それに属する大学心理相談所(BAPU)の閉鎖を実行することにしたのである。BAPUが、学生の精神衛生を口実に警察的手方による学生管理の拠点となっているという理由からである。BAPUの閉鎖は翌11日に決行された。一方、この直後、1月14日には、AFGES執行部のメンバーが、パリで開催されたUNEFの総会に出席し、総会開始と同時にUNEFの解散動議を提出する。彼らの動議はナント大学の学生と「療養所学生」組合の代表の賛成しか得られず否決されたが、この総会をきっかけにシチュアシオニストの考えは急速にフランス中の学生の間に広まってゆき、その後、UNMFの枠を乗り越えた新しい異議申し立ての運動がフランス各地の大学で生まれてくる。SIがここに書いているように、1月14日の総会の前には、UNEFはAFGESに賛同していたボルドーとクレルモン=フェランの学生組合に翻意を説得せざるをえない状況に追い込まれていたし、他にも多くの学生が「学生生活の貧困」を読み、そのテーゼへの賛同をAFGESに手紙で知らせてきていた。
 AFGESの提案によるUNEF解散は実現しなかったが、この総会以降、UNEFの破産はいっそう明白になっていった。UNEFは60年代始めには10万人の学生(全学生の50%)を組織していたが、67年には学生数が倍増したにも関わらずわずか3万人(全学生の10%)しか組織できなくなっていた。67年の総会以降は、さらに組織率が低下するだけでなく、60年代初頭に人数的には少数派だがUNEFの左翼主義に期待を抱いて参加してきていたさまざまな者たちの多くがUNEFに見切りをつけ、残された者は既成政党の下部組織だけになってしまった。すなわち、統一社会党(PSU)の学生組織である統一社会主義者学生(ESU)と、フランス共産党の学生組織である共産主義学生同盟(UEC)が二大勢力で、それに少数派のトロツキスト系の革命的学生連絡委員会(CLER)が時々攻撃を仕掛けるという構図が定着する。AFGESが出かけていった67年1月のパリの同じ総会では、ESUが僅差でUECを破って全国執行部を構成したが、その年の7月のリヨンでの総会で採択されたUNEFの二大活動方針は、「生産力の発展の方向に大学を民主的に改革することと、学生の集団的意識化」を図ることというものだった。これは、ヴェトナム反戦運動や大学の管理体制への異議申し立ての運動を開始している学生の問題意識からほど遠く、むしろ資本主義の発展に適応した大学改革(少数のエリートの教育と、大多数の学生の資本主義労働力としての教育、そしてそのための選別の強化)を主張して5月革命のきっかけの1つにもなった教育相フーシェによる大学改革法案とまったく見分けの付かないものだった。AFGESの行動はこうしたUNEFの破産を白日のもとに曝し、彼らが配付したシチュアシオニストの「学生生活の貧困」の主張の方こそが67年から68年にかけての学生の運動を「組織」してゆくことを予告した「事件」だったのである。実際、『学生生活の貧困』は、66年11月に刷られた初版1万部が2ヵ月でなくなり、67年3月にはさらに1万部が刷られ、その後もさまざまな海賊出版によってフランス各地の人学で多くの者に読まれ、67年3月から68年4月までのナント大学やパリ大学ナンテール分校での闘争、68年5月のソルボンヌの占拠と「5月革命」にいたる異議申し立ての運動の爆発の起爆剤になってゆくのである。
 1月14日のUNEF総会以降のAFGESとシチュアシオニストの行動についてはもはや細かく書く余裕がない。詳しくはSIのこのテクストそのものと、記事「アルザスイデオロギー」とその「訳者解題」を読んでもらいたいが、簡単に出来事だけを列挙しておく。1月15日、ストラスブールのSIメンバー、ジャン・ガルノーらの分派行動によるSIからの除名。その直後からのSIと「ガルノー派」との、さらにはAFGESのシュネデール (SI派)とヴェル=ピオヴァ(カルノー派)も巻き込んだビラの応報。1月22日、ヴェル=ピオヴァによるMNEF全国管理委員会に対する全国のBAPUの閉鎖の提案。3月14日、それに驚愕したストラスブール大学評議会によるヴェル=ピオヴァ除籍決定。4月9日、「ガルノー派」との共同行動を続けるヴェル=ピオヴァのMNEF執行部選挙への立候補。4月13日、UNEFの統一候補に対するヴェル=ピオヴァの落選(1066票対766票)。翌14日、アンドレ・シュネデール、アンドレ・ベルトラン、ダニエル・ジュベールの3名による、官僚組織MNEFの存在そのものと、既存の組合組織内部の改良によって何事かをなせると思っているヴェル=ピオヴァの双方を批判する声明ビラ「SIは君たちにはっきりと言っていた!」の発表。4月20日のヴェル=ピオヴァによる空しい反論……、このようにしてAFGESの闘争は終わるのである。

本文へ