「疎外について ──いくつかの具体的側面の検討』 訳者解題


 「疎外について」の総題でここに集められた文章は、新聞や雑誌、新刊の書籍や広告など、さまざまなメディアで流される「情報」を、現代世界の「疎外」の概念の表象としてSIが分析を加えたものである。これらの文章は、既存メディアの「転用」という意味では『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第9号の「われわれの語る世界」を引き継いだ形になっているが、分析はより深く、批判対象のテクストにより密接に則したものとなり、純粋な引用という形は消えて、文化事象から政治的出来事までのさまざまなトピックについてシチュアシオニストが一貫した批判を展開する場となっている。批判の対象はさまざまたが、それらの批判の視点は、第1に、スペクタクル化された商品や文化、あるいは政治と、それらが産み出している「疎外」情況に対する鋭い批判、そして第2に、そうした情況のなかで「左翼的」と自称する知識人や文化人、活動家集団が何ら有効な批判を提出できず、文化的前衛主義や折衷主義、政治的な第三世界主義の幻想に囚われて、逆に「スペクタクルの社会」の強化に貢献している点を徹底的に突くことで一貫している。
 たとえば、前者には次のようなものがある。「植民地化されたコミュニケーション」と題された最初の文章は、米国でのコンピュータ見合いの流行を題材に現代の技術情報社会の「主体間コミュニケーションの組織的な収奪、権威主義的な媒介による日常生活の植民地化」を批判する文章だし、その次に収められた「文化的警察的余暇」は、警察による青少年余暇施設の開設とレーザー・ビデオカメラの発明、そして同じ「技術」を用いた芸術家による文化スペクタクル(音と光のショー)を取り上げて、巨大警察による都市空間の組織化と監視、そしてそのなかで維持される「余暇」に奉仕する芸術という一体的な構図を暴きだす「『自由時間』の包装」と題された文章は、〈地中海クラブ〉 のような余暇産業を批判したもので、そうした余暇産業は、ヴァカンス村での「他者とのコミュニケーション」だとか「創造的な遊び」や「自由」を提唱し、その実、「労働の既存のやり方での組織化を出発点として、この労働から出たゴミを産業的に処理しようとする」疑似的自由を売ることによって、根本的な「疎外」を強化するにすぎないことを暴露する。また、「自殺の舞台装着(デコール)と観衆」は、米国で急増する自殺を取り上げ、モノの豊かさのなかでの「模範的サラリーマン」の直接的動機のない自殺や、飛び降り自殺を実行しようとする者に対するスター化とスペクタクル化を指摘している。さらに、ヴェトナム戦争の作戦計画の模擬訓練として米軍が合州国西海岸全域に広がる広大な地域に実際のヴェトナムの地形や村を再現し、大量の艦船と人員を動員して行った「シルバーランド作戦」を、シチュアシオニストの「構築された状況」と対極にある「戦争ごっこ」として断罪する「遊びの今日的手段と今日的目的」や、キューバからエジプト、イラクなどのアラブ世界、アフリカ統一機構からインドネシアまでのいわゆる「第三世界」の「革命運動」の幻想の政治的瓦解の見取り図を描いた「1965年政治年鑑」──やりそこなった行為の選集」などの記事によって、SIは、日常生活から世界政治までが、スペクタクル化という共通の現象によって人間的「疎外」を拡大している現状を鮮やかに描き出す。
 こうした現状に対して、批判的であるはずの芸術家や知識人は、批判的であることの役割を演じることによって、逆にスペクタクルの中での疎外を強化するばかりだ。SIはそのことを厳しく断罪する。「ゴダールの役割」と題された文章は、スノッブの取り巻きの中で、スノッブの疑似的自由を体現し、女性雑誌『エル』から時代遅れのアラゴンまでのスノッブの称賛を集めているゴダールの映画の偽の革新性と偽の批判的言説は、まさに「現代思想の〈地中海クラブ〉」と形容すべきものであることを指摘する。「解体と回収」と題された文章は、「拒否の現実」の運動を見ずに「現実の拒否」を口実にして無意味な言語実験を行い、反抗の身振りを演じて見せるだけの「前衛文学」作家ペレックロブ=グリエや、たちまちにしてモード産業に回収され流行のデザインとして利用される「オッブアート」などの「解体派」芸術の「回収」を指摘する。また、元『アルギュマン』派の哲学者アクセロスとクリスチャンの現代哲学者リクールが参加してパリ神学コレージュの主催で行われた「死後の生〔=生き延び〕」についてのオカルト的会議の愚かしさを笑う「死後の生連合持ち株会社」と題された『ル・モンド』紙の短信、20年代の革命運動の失敗と時を同じくして現実批判の武器としての役割を断念することで発展してきたフロイト以降の精神分析の退行の成れの果てとしてのラカンの哲学的文化ショーを断罪する「細分化された結果のアヴァンチュール」などの文章、さらに極め付けとして、現代消費社会についてのまったく時代錯誤の認識の上に現代の「若者」の文化と政治的立場を解説し、「マルクス主義イデオロギー」を唯一評価できる現代の「イデオロギー」として肯定し、「社会主義」の「純粋」さは「観念」の中にしか存在しえないという理由で、現実の世界でのその「具現」の不純性を免罪するという「観念」的な議論を開陳し、ソ連には「階級闘争」が存在しないからそれは「階級社会」ではないとしていまだにソ連を擁護するサルトルに逐一反論して論破する文章「ある愚か者」、これらの文章には、滑稽なまでに愚かな現代思想の首領たちのぶざまな姿が暴きだされている。「社会主義かプラネットか」と題された文章では、右翼オカルト雑誌として大衆扇動(ポピュリズム)的手法で爆発的に売れた『プラネット』誌への元『アルギュマン』誌の編集長エドガール・モラン編集委員コスタス・アクセロスの協力と、そのモランの『社会主義か野蛮か』誌への協力の両方を暴露したうえで、『社会主義か野蛮か』誌のわけカルダンことカストリアディスの──思想的混乱を鋭く突き、「絶対自由主義者ダニエル・ゲランのアルジェリア」と題された文章では、べン・ベラと会見し、その人物に惚れたことを唯一の根拠にべン・ベラを支持し続け、そのべン・ベラが作り上げたブーメディエンの権力によるクーデタの後でも、ベン・ベラの復権だけがアルジェリアの唯一の解決策であると言い張る「絶対自由主義」の「左翼知識人」ダニエル・ゲランの愚かさが告発される。最後の文章「疎外に抗するドムナック」では、「疎外」という概念の曖昧さゆえに「疎外」という言葉と決別すると言いながら、現実の「疎外」状況そのものにも目をつぶる一方で、「人間の原初的な疎外」すなわち「創造主=神」の存在を受け入れるよう誘う「キリスト教左翼思想家」ドムナックが徹底的に批判される。こうした「左翼知識人」の破産の暴露に加えて、SIへのさまざまな無理解への皮肉(「SIを理解しないために」)や、SIを換骨奪胎した剽窃的文章の断罪(『フロン・ノワール』誌を批判する「スペクタクルの予備軍」、ルフェーヴルの著書『パリ・コミューン』での相変わらすのSIからの盗作を暴露した「歴史家ルフェーヴル」)もある。これらの覚醒した文章によって、SIは、マスコミではその後も社会・文化批判の先端に位置するものと紹介されてゆく「左翼活動家」や「左翼知識人」の言動が、最初からいかに欺瞞に満ちたものであるかを暴露してゆくのである。