パリ市の合理的美化計画 (ポトラッチ 第23号)

訳者改題

 9月26日に集まったレトリストは、討議の間に言及された都市計画上のさまざまな問題への、以下に挙げるような解決策を一般に提起した。整地作業が最も急を要する問題であると思われるため、建設的な面は考慮に入れなかったことを念頭に置いてもらいたい。
 最終電車の通過の後、夜間、地下鉄を開放すること。通路や線路は、間欠的な弱い照明で薄暗くしておくこと。
 非常階段の改修工事と必要な所に連絡橋を建設することによって、パリの屋根を散歩に開放すること。
 小公園を夜間も開けておくこと。照明は消したままにすること(場合によっては、心理地理学的配慮から、弱い照明が正当化されることがある)。
 すべての通りの街灯にスイッチをつけること。照明は公衆が自由にできるものでなければならない。
 教会に対しては、4つの異なる解決策が提案され、実験による審判のときまではどの説も弁護できるものと認められた。実験によって、迅速に最良のものが決定されるだろう。
 G・E・ドゥボールは、あらゆる宗派の宗教建築の完全な破壊に賛成すると宣言した(跡形もなく取り壊し、空間を利用する)。
 ジル・J・ヴォルマンは、教会からあらゆる宗教的観念を取り除いたうえで、建物を残すことを提案した。普通の建物として取り扱い、子供たちを遊ばせておくのである。
 ミシェル・ベルンシュタインは、残骸から教会の当初の目的が判別できなくなるように、教会の一部を破壊することを求めた(セバストポル大通りの〔サン・〕ジャック塔*1は、偶然によってできたこの一例である)。完璧な解決策は完全に教会を破壊し、そこに廃墟を建設することであろうが。最初に述べた解決策は、もっぱら経済上の理由から選ばれたものである。
 最後に、ジャック・フィヨンは教会をお化け屋敷に改装することを訴えた(いまある雰囲気を利用しながら、その恐怖をあおる効果を強調する)。
 美学的見地からの反論を退け、シャルトルの大聖堂*2の正面入口を賛美する者たちを黙らせることで全員の意見は一致した。美は、幸福を約束するものでなければ、破壊されねばならない。世界で今だに制圧されていない場所や、生の非人間的な広大な余白に建てられた、この種の建造物ほど不幸をよく表しているものがあるだろうか。
 駅は今のまま残すこと。心を動かすに十分なその醜悪さは、これらの建物のちょっとした魅力である行きずりの雰囲気を大いに強めてくれる。ジル・J・ヴォルマンは出発に関するあらゆる表示(行き先、時刻表など)をなくすか、それを恣意的に狂わせることを求めた。これは漂流を促進するためである。激しい議論の後、提出されていた反対意見は撤回され、計画は全面的に承認された。たくさんの他の駅や、いくつかの港で録音してきた音を放送することによって、駅の聴覚的雰囲気を高めること。
 墓地の廃止。死体やその種の遺品──遺骨や痕跡も──の完全な破壊。(疎外の過去の、このひどい遺物が、最も機械的な観念連合によって表している反動的な宣伝(プロパガンダ)に気をつけねばならない。墓地を見て、モーリヤック*3、ジッド*4エドガール・フォール*5のことを思わずにいられるだろうか?)
 美術館の廃止、および芸術作品のバーヘの分配(フィリップ・ド・シャンパーニュ*6の作品は、グザヴィエ=プリヴァス通り*7のアラブ人カフェに、ダヴィッド*8の「神聖」はモンターニュ=ジュヌヴィエーヴ通り*9のバー「樽」に)。
 刑務所への無制限の自由通行。そこで観光ツアーをすることも可能にする。訪問者と受刑者を差別しないこと。(人生のユーモアを増やすため、1年に12回籤引きをして、訪問者が逮捕され、実刑を言い渡されることもあるようにする。これは、興味深い危険を冒すことをどうしても必要とする馬鹿どもに、活躍の場を与えるためである。たとえば、昨今の洞穴学者とか、遊びの欲求をかくもみすぼらしい真似事で満たす奴らとか。)
 その醜悪さから、何の利益も得ることができないような建造物(プチ・パレ*10とかグラン・パレ*11の類い)は別の建造物に場所を譲らねばならない。
 意味がなくなった彫像や、それが設置される前の歴史的理由から、どんな美的刷新も禁じられている彫像の撤去。撤去までに残された期間、彫像の存在を有効に使うために台座に刻まれた題名と文章を、政治的な方向に変えたり(シャンゼリゼに面したもの*12に、クレマンソー*13と呼ばれる虎)、当惑させる方向に変えたり(ミシェル大通りとコント通りの交差点のもの*14に、熱病とキニーネヘの弁証法的賛辞シテ島ノートルダム前広場のもの*15に、大いなる深み=海溝)することができよう。
 通りの現行の名による民衆の無知蒙昧化をやめさせる。市議会議員の名、対独抵抗運動(レジスタンス)の闘士の名、エミールとかエドゥアール(パリに55もある)、ビュジョー*16とかガリフェ*17といった将軍の名、もっと一般的に言えば、汚い名(例えば、レヴァンジル〔福音〕通り*18)はすべて抹消する。
 これに関して言えば、『ポトラッチ』誌 第9号で呼びかけられた、場所の呼称におけるサン〔=〕と言う語の否認のためのアピール*19はかつてないほど有効である。

*1:〔サン・〕ジャック塔 16世紀に建立され、1802年に消失したサ・ジャック・ラ・ブシュリー教会の鐘楼。現在は廃墟のようになり、地上52メートルの尖頂には気候観測器が設置されているだけである。1648年パスカルがここで空気の重量を調べる実験を行ったことで有名。

*2:シャルトルの大聖堂 パリの南西にあるウーレ=エ=ロワール県の県都シャルトルのノートルダム大聖堂のこと。ゴチック様式の大建造物で、十三世紀始めに建立。そのファサードの彫刻は多くの作家に称賛されている。

*3:フランソワ・モーリヤック(1885−1970年) フランスの代表的なカトリック作家,ド・ゴール派としてレジスタンスに参加したが、政治的には反共主義者で、サルトルらの実存主義に対抗した。作品に『愛の砂漠』(25年)、『テレーズ・デスケールー』(30年)など。52年ノーベル文学賞

*4:アンドレ・ジッド(1869−1951年) フランスの小説家。『地の糧』(1897年)、『狭き門』(1909年)などの作品は信仰と肉欲の狭間での苦悩を主題にした作品である。47年ノーベル文学賞

*5:エドガール・フォール(1908−88年) フランスの政治家・作家。48年から58年まで急進社会党に属し、第4共和政の内閣で何度も閣僚を経験。59年以降はド・ゴール派に属し、中国との関係改善に努めたり、68年5月革命直後の教育相となり大学改革を行ったことで知られる。

*6:フィリツプ・ド・シャンパーニュ(1602−74年) フランドル生まれのフランスの画家。ルイ13世、その妃アンヌ、宰相リシュリューらの肖像画で知られる宮廷画家。フランドル派絵画をフランスに伝えた。

*7:グサヴィエ=プリヴァス通り パリ5区、サン・セヴラン通りのほぼ中央からセーヌ川に向かって北に延びる百メートルほどの通り。1953年12月二25日の夜、ジル・イヴァンとドゥボールともう1人のLIメンバーが、このグサヴィエ=プリヴァス通りのアルジェリア人のバーに入り、そこにいた40歳ぐらいのアンティール人と奇妙な会話を交わし、それをきっかけに翌年の1月1日までパリの街の「漂流」が開始されたことが、『裸の唇』誌 第9号(56年11月)に「漂流の2つの報告」として報告されている。

*8:ジャック・ルイ・ダヴィッド(1784−1825年) フランスの画家。フランス革命中はジャコバン党員としてマラーの死」など革命闘士の肖像を描き、ナポレオンの登場によって熱烈なボナパルティストとなり、帝政時代はその宮廷主席画家として美術界に君臨した。

*9:モンターニュ=ジュヌヴィエーヴ通り パリ5区、モベール=ミュチュアリテからパンテオンの裏まで続く南北の通り。正式にはモンターニュ=サント・ジュヌヴィエーヴ通り。この32番地には、レトリスト・インターナショナルの本拠があり、そこに後に『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』の編集部が置かれた。

*10:プチ・パレ パリ8区、シャン・ゼリゼ大通りとセーヌ川に挟まれた場所に立つガラスと鉄骨製の大建造物,1890年のパリ万国博覧会のために建てられ、現在は18,9世紀の家具・装飾品・絵画の美術館や特別展に使われている。

*11:グラン・パレ プチ・パレの向かいにある大建造物。同じく1890年のバリ万博のために建てられ、現在はその巨大なギャラリーを見本市や文化センターとして使うほか、西側の建物を「発見の殿堂」と称した科学博物館として用いている。

*12:シャンゼリゼに面したもの プチ・パレとグラン・パレの間を通るウィンストン・チャーチル大通りとシャン・ゼリゼ大通りの交差点にあるクレマンソー広場の端に立つジョルジュ・クレマンソーのブロンズ彫像。フランスの彫刻家フランソワ・コニュが1932年に制作した。

*13:ジョルジュ・バンジャマン・クレマンソー(1841−1929年) フランスの政治家。最初は医者だったが、1870年以降、パリ18区の区長となり、翌年、急進派の代議員に選出、さらに急進派のリーダーとして鋭い舌鋒で次々と内閣を倒していった。そこから「倒閣屋」とか「虎」の異名を特つ。1906年から13年まで首相としてモロッコ侵略を行い、社会主義者の反発で退陣、17年、ボワンカレ大統領の下で再度首相、19年のヴェルサイユ条約でフランスの有利な講和条約を演出し、第一次大戦の「勝利の父」と呼ばれた。

*14:ミシェル大通りとコント通りの交差点のもの ミシェル大通りはパリ5区と6区の境界線をなす南北の長い通りであるサン・ミシェル大通り、コント通りはサン・ミシェル大通りと交わる6区の通りでリュクサンブール公園の下辺となる東西の通りオーギュスト・コント通りのこと。前者は「サン(聖)」を取り、後者は「オーギュスト(高貴な)」を取って呼ぶことがレトリストの習價だった。この交差点にはルイ・マラン広場という小さな広場があり、その端に、1820年にキニーネを発見した2人の薬学者(カヴァントゥとペルティエ)を讃える裸の男性の横たわる彫像(ピエール・ポワソン作)が建っている。

*15:ノートルダム前広場のもの この広場にはシャルルマーニユの彫像がある。

*16:トマ・ロベール・ビュジョー(1784−1849年) フランスの軍人。アルジェリアを占領して総督となった。

*17:ガストン・オ−ギュスト・ガリフェ(1830−1909年) フランスの軍人。ナポレオン3世に仕え、セダンで捕らえられたが、フランスに戻り、ヴェルサイユ軍の将軍としてパリ・コミューンを弾圧した。

*18:レヴァンジル〔福音〕通り パリ18区、オーベルヴィリエ通りの途中から南西に延びる通り。

*19:サン〔=聖〕と言う語の否認のためのアピール 『ポトラッチ』誌 第9−10−11合併号(1954年8月17−31日)に掲載された「教会の閉鎖を待ちながら」を参照。