都市計画に反対する論評

 ある専門家──ションバール・ド・ローヴェ*1──の意見では、正確な実験によって、次のことが確証されているそうだ。すなわち、計画立案者によって提案された計画は、場合によっては、不満と反乱を引き起こすが、そうした不満や反乱は、もしわれわれが人々の現実の行動と、とりわけその行動の動機についてより深い知識を持っていたならば、部分的には避けることができたかもしれない、ということだ。
 都市計画の偉大と屈従。われわれが執拗に疑い深く都市計画立案者のいかがわしさを嗅ぎつけた時には、すでに誰もが、こうした價例破りや不作法に直面したときにふさわしいやり方で、顔を背けてしまっていた。ここで民衆の判断を非難する必要はない。民衆はそれまでにもすでに、同じ不しつけさで態度を明らかにしていた。すなわち、「建築家の野郎!」という言葉は、ベルギーではこれまでずっと、明白な〔軽蔑の〕言葉だった。だが、しかじかのエキスパートが今日、俗世間の意見に同調し、彼自身も計画立案者のいかがわしさを嗅ぎつけだしたからには、われわれはやっと救われたのだ! かくして、都市計画家こそが、不満と反乱を煽り立てる、それも「ほとんど」第一次的扇動者として煽り立てるのだと、公式に認められた。公権力のすみやかな反応を願わねばならない。反乱の温床が、それを取り除くことを任務とする者白身によって公然と維持されるなどということは、考えられないことだからである。そこにあるのは、軍法会議だけが決着を付けられるような、社会平和に対する犯罪である。正義が自分と同列のものに対して厳罰を持って臨むなどということは見られないだろう。そのためには、エキスパート自身が、結局、狡猾な都市計画家でなくてはならなくなってしまう。
 計画立案者が、できるだけ精神の均衡を保って住まわせようと望む人々の行動の動機を知ることができないなら、そんな都市計画は即座に犯罪研究センター(扇動者──前記参照──を捜し出し、誰もがヒエラルキーのなかで安心していられるようにするもの)の一部門にしてしまった方がましだ。逆に、計画立案者が本当にその動機を知ることができるなら、犯罪抑止の科学は、存在理由を失い、社会的根拠を変更することになる。その場合には、機関銃というデリカシーを欠く手段の助けを借りなくても、都市計画だけで十分、既成秩序を維持できよう。コンクリートと同一視された人間、それはテクノクラートたちにとって、なんという夢、あるいは、なんと幸せな悪夢であろうか。たとえ彼らがそこで、自分たちに残された〈高度神経活動〉を失い、コンクリートの権力と硬さのなかに保存されることになろうとも。
 もしナチスが現在の都市計画を知っていたなら、強制収容所をHLM(アッシェレム)〔公団アパートのような低家賃住宅〕に変えたことだろう。しかし、この解決策は、ションバール・ド・ローヴェ氏にとっては、あまりにも乱暴に見えるようだ。理想的な都市計画は、誰をも、不満も反乱もなく、人間の問題の最終的解決のほうへ引き入れるものでなければならない。
 都市計画は、悪夢の最も完璧な具体化である。悪夢とは、リトレ〔19世紀フランスの辞典〕によれば、「極度の不安の後にはっとして目を覚ますことて終わる状態」である。しかし誰に対してはっとするのか。眠くなるまでわれわれにむりやり食べさせた者に対してか? アイヒマンを処刑することは、都市計画家を絞首刑にするのと同じくらい馬鹿げたことだろう。それは、射撃演習場のまっただ中にいるときに標的を批判することだ!
 計画化とは、大げさな言葉である。野卑な言葉だ、と言う人もいる。専門家は、経済の計画化と計画化された都市計画について話し、それから訳知り顔に目配せする。そして、演技がうまくなされる限りは、みんなが拍手喝采する。見せ物(スペクタクル)の目玉は、幸福の計画化である。すでに、数字好きな者が調査を実施し、正確な実験によってテレビ視聴者の数が確定されている。視聴者の周りの地区を整備し、視聴者のために建設し、視聴者の気をそらせないように、眼と耳を使って彼らの関心に糧を与えておくためである。すべての人々に、平和な生活と心の均衡を保証する必要がある。それも、漫画の海賊が「死人に口なし」という宣告のなか示していた適切な先見の明をもって。都市計画と情報とは、資本主義社会でも「反資本主義」社会でも、相互補完的である。それらは沈黙を組織するのだ。
 住むことは、都市計画が掲げる「コカコーラを飲もう」というスローガンである。飲む必要が、コカコーラを飲む必要にすり替えられている。住むということは、どこでも自分のところにいることだ、とキースラー*2は言う。しかし、そのような預言的な真理は、誰の首根っこもつかまえない。そのような真理は、たとえ輪奈結び〔ネクタイのように、ひもを滑らせて結び目を調整できる結び方〕を思わせるところがある〔=融通無碍である〕としても、だんだん厳しくなってくる寒さに対してのスカーフにすぎない。われわれは住まれている〔=取りつかれている〕。まさにこの点から出発しなければならない。
 広報活動(パブリック・リレーション)としての理想的な都市計画は、紛争のない社会的ヒエラルキーを空間のなかに投影したものにほかならない。道路、芝生、自然の花、人にの森は、付属の歯車に油を注し、隷属を心地よいものにする。イヴ・トゥーレーヌの空想小説では、国家は、年金労働者にさえ、電子マスターベーション器を与える。経済と幸福は、そのことで利益を得るのである。
 なんらかの威厳ある都市計画が必要だ、とションバール・ド・ローヴェは主張する。彼がわれわれに提案するスペクタクルは、オスマン*3も時代遅れにする。オスマンは、砲弾の屈く範囲〔パリ市内のこと〕の外でまでは威厳に気を配ることはできなかったのだから。今度の主題は、日常生活の上でスペクタクルを演劇的に組織し、誰もが資本主義社会によって課せられた役割に応じた枠のなかで生きるようにし、そして、誰に対しても、まるで眼の見えない者のように、自分自身の疎外を現実化することに幻想的に自己を認識するよう教育し、誰もがますます孤立するようにさせることである。
 空間の資本主義的教育とはひとが、自分の影を失う空間、自分でないもののうちに自己を激しく探し求めるせいで自己を見失ってしまう空間における教育にほかならない。どんな教師にも、無知を組織するどんな業者にとっても、なんとも見事なねばり強さの例である。
 ある都市の図面、その道や壁や街区はそれぞれが、奇妙な大衆操作の記号を成している。そこに、どのような記号をわれわれのものとして認めたらよいのか。いくつかの落書き(グラフィティ)である。それらは、大急ぎで刻まれた拒否の言葉や禁じられた身振りだが、衡学者に分かるのは、化石となった都市のなか、ボンペイの壁に刻まれた落書き(グラフィティ)の重要性ぐらいだろう。だが、われわれの都市は、ボンペイよりもはるかに化石化している。われわれは、馴染み深い国で、日々の友人のように生き生きとした記号に囲まれて住みたいと思う。革命とはまた、万人に属する記号を永続的に創造することでもあるだろう。
 都市計画に関するすべてのことには、信じがたい重苦しさがある。建築する〔=構築するconstruire〕という語は、他の語が浮かんでいる水のなかに、まっすぐ沈んでしまう。官僚主義ビューロクラシー)文明が広まったところではどこでも、個々に無秩序に建築することが、公式に是認され、権力の所轄機関がそれを引き受けてきた。その結果、建築〔=構築〕の本能は、悪として根こそぎにされ、今ではほとんど、子どもや未開人(行政用語では、責任無能力者)のうちか、人生を変えることができないので、あばら屋を壊したり建て直したりすることに人生を費やしているすべての人々のうちにしか生き残っていないのである。
 安心させる技術、それを都市計画は最も純粋な形で実行しようとしている。それは、まさに精神を全面的にコントロールしようとする権力の最後の礼儀である。
 神と都市。抽象的で実在せぬ勢力はどれも、都市計画ほどうまく、神の跡を継ぎ、誰もが知る〔神の〕死によって空位となった門番の地位につくことを要求できなかった。その遍在性、その測り知れぬ善、そして、おそらくいつの日かその至高の権力をもってすれば、都市計画(またはその案)は、教会を脅かすに足るものを持っても不思議ではないかもしれない。ただしそれは、権力の正統性に関する疑念が都市計画に少しでもあるとしたらの話である。だが実際は、そんなものはまったくない。というのも、教会は、権力である以前に「都市計画」でもあったからである。教会は、在俗の聖アウグスティヌス*4などというものがいたとしても、何を恐れることがあろうか。
 最後の審判の希望までも奪われる何千もの存在を「住む」という言葉のなかに共存させることには、何か見事なものがある。その意味において、見事さが非人間性を飾っている。
 私生活を産業化すること。「あなたの生活をビジネスにしたまえ」というものが、新たな標語になるだろう。自らの生活環境を、経営すべき工場として、すなわち、機械の代替物と、高級なイメージの生産と、壁や家具という不変資本とを持つミニ企業として、組織するよう、各人に提案することは、本当の大工場──それは、やはり生産を行わなければならないのである──を所有する御仁の悩みの種を完璧に理解できるようにするための最良の方法ではないだろうか。
 地平を均一化すること。壁やわざとらしい小緑地は、夢と思考に、新やな限界を設ける。というのも、砂漠がどこで終わるのかを知ることは、やはり、砂漠を詩的に美化することだからである。
 新しい都市は、伝統的な都市とそれが抑圧しようとした人間との間の対立としてあった闘いの痕跡までも消し去るだろう。すべての人々の記憶から、それぞれの日常生活にはそれぞれの歴史があるという真実を完全に取り除くこと、そして、体験の単純化が不可能であることを参加の神話において否定すること、そんな風に、都市計画家たちは、自らの追求する目的を言い表すことができるかもしれない。もっともそれは、彼らが自らの思考の邪魔をする真剣さの精神を少しのあいだ遠ざけておいてくれるとしての話だが。真剣さの精神がなくなるとき、空は明るくなり、すべてがより鮮明になる、というより、ほとんどそうなる。たとえば、ユーモアを解する者ならよく知っているように、敵を水爆で破壊することは、自らに、より長い苦しみの後の死を宣告することである。都市計画家たちが自分の企んでいる攻撃のなかに自分自身の自殺のあらすじを把握できるようにしてやるには、彼らをいつまでも嘲弄し続けねばならないのだろうか。
 墓地は、考えうる最も自然な緑地帯であり、最後の失われた楽園として、未来の都市の枠内に調和よく溶け込める唯一のものである。
 原価は、建設する欲望に対する障害であることをやめなければならない、と左翼の建築家は要求する。彼は安らかに眠るがよい。やがて、建設する欲望が消えてしまった時には、そうなるだろう。
 フランスでは、建築を機械工の遊びにする方式が発達した(J=E・アヴェル)。ことをできる限りうまく運ぶためとはいえ、セルフ・サーヴィスの店とは、フォークが食べるのに役立つ(サーヴ)という意味で人が役立つ(サーヴ)場所でしかない。
 マキャヴェリスムを鉄筋コンクリートに混ぜることによって、都市計画は、良心に恥じるところがないつもりでいる。われわれは、警察的なデリカシーの王国に入っている。威厳のなかで隷属させること。
 信頼のなかで建築すること。広々としたガラス窓の現実でさえ、虚構のコミュニケーションを隠さない。公共の場の雰囲気でさえ、私的な意識の絶望と孤立を暴く。空間を忙しく埋めることでさえ、ロスタイムによって測られる。
 現実主義的都市計画のための案。ピラネージ*5の階段をエレベーターに置き換える。墓をビルディングに変える。下水渠沿いにプラタナスを植える。ごみ箱を居間に改造する。バラックを積み重ねる。そして、すべての都市を美術館状に建設する。つまり、あるものすべてを、さらには無いものまでも、活用するのである。
 疎外は手の届くところにある。都市計画は疎外を触知できるものにする。飢えたプロレタリアートは、動物の苦しみの中で疎外を体験していた。われわれは、事物の盲目的な苦しみのなかで疎外を体験するようになるだろう。手探りで、自分が違うものであることを感じること。
 まっとうで炯眼の都市計画家たちには、柱頭行者*6の勇気がある。われわれは、彼らの願望を正当化するために、われわれの生活を砂漠にするのだろうか。
 哲学的信念の擁護者は、20年ほど前から労働者階級の存在を発見していた。社会学者が口を揃えて、労働者階級はもはや存在しないと公言しているとき、都市計画家たちは、哲学者も社会学者も待たずに、住民を発明してしまった。彼らがプロレタリアートの新たな次元を最初に見抜いた人々の一員だったという栄誉で、彼らを讃えなければならないだろう。それは、彼らが、最も柔軟な調教方法で、社会のほとんど全休を、乱暴なやり方でではないが徹底的にプロレタリア化する方向へ導くすべを知っていただけに、いっそう正確で非抽象的な定義である。
 廃墟の建設者たちへの意見。都市計画家たちの跡を継ぐのは、スラム街とバラックに住む最後の穴居人たちだろう。ベッドタウンの特権者たちは、壊すことしかできないのに対して、彼らは建築するすべを知っている。そのような出会いに多くを期待しなければならない。そのような出会いが革命を規定するのだから。
 聖なるものは、価値を失って、神秘になった。都市計画は、〈大建築家(グランタルシテクト)〉〔=神〕の究極の失墜なのである。
 テクノロジーのうぬぼれの背後に隠されているのは、ひとつの明らかにされた真実であり、そのようなものとして異論の余地のないものである。すなわち、「住む」必要がある、ということである。このような真実の性質に関して、浮浪者は、何で満足しておくべきかをよく知っている。浮浪者は、ごみ箱──住むことを禁じられているので彼はそこで生きざるをえない──の問で、生を築くことと住居を築くことは、およそ考えうる真実の唯一の面である実践においては、どれほど区別できないかが、おそらく誰よりもよく分かっている。しかし、この文明世界が浮浪者を追放の身にしているせいで、彼の経験は非常につまらぬ非常に困難なものにされ、それゆえ、建築家はそこに、──ばかげた仮定だが、権力が建築家の存在を保証するのをやめれば──、自己を正当化する口実を見いだすであろう。
 労働者階級はもはや存在しないようである。かつてのプロレタリアの多数が、今日では、昔は少数の者だけに許されていた快適さを獲得している。これは周知のことだ。しかしながら、むしろ、量的に増加していく快適さこそが、彼らの需要を穫得し、彼らに需要の欲望をもたらしているのではないだろうか。その結果、快適さのある種の組織化が、伝染病のようにして、モノの力によって感染するすべての人々をプロレタリア化しているようである。ところで、モノの力というものは、責任ある指導者たちや抽象的な次元に往む司祭たちを介して力を及ぼすものである。彼らの唯一の特権は、遅かれ早かれ、ゲットーに囲まれた行政的中心地を支配することに帰するであろう。最後の人間は退屈で死にそうになるだろう。ちょうど、蜘蛛が自分の巣の真んなかで衰弱死するように。
 急いで建設する必要がある、住まわせるべき人々がたくさんいるのだから、と鉄筋コンクリート人間主義者たちは言う。ただちに塹壕を振る必要がある、祖国全体を救わなければならないのだから、と将軍たちは言う。前者を称賛して後者をあざ笑うのは、何か不当なことではないだろうか。ミサイルと大衆操作の時代に、将軍たちの冗談は、いまなお趣味のいい冗談だ。しかし、それと同じ口実で、空中に塹壕を築き上げるなんて!

ラウル・ヴァネーゲム   

*1:ポール=アンリ・ションバール・ド・ローヴェ(1913−) フランスの都市社会学者。著書に『労働者家庭の日常生活』(1956年)、『文化と権力』(75年)など。

*2:フレデリック・キースラー(1890−1965年) オーストリアの芸術家。環境という観点から建築と美術を再検討し、近代建築を批判して、独自の住宅プラン「エンドレス・ハウス」(1949−60年)を考案した。

*3:ジョルジュ=ウージェーヌ・オスマン男爵(1809−91年) フフンスの政治家。第二帝政期にセーヌ県知事としてパリの都市改造を行った。公園の建設、大通りの開通、上下水道の整備などをともなうこの都市改造は、1848年の2月革命時の革改革派の拠点となった古い市街を破壊し、軍隊の移動と地区の監視に好都合な広くてまっすぐな大通りを放射線状に配置するという政治的な意図を持つものであった

*4:アウグスティヌス(354−430年) 初期キリスト教会の教父・哲学者。著書に『告白』『神の国』。

*5:ビラネージ(1720−78年) イタリアの版画家・建築家。クロード・ロランの風景画の影響を受け、古代ローマの廃墟や遺跡をもとにした幻想的な版画を作った。代表作に『ローマの景観』(1756年)、『古代ローマ』(56年)のほか、『想像の牢獄』(50年)が特に有名で、そこに描かれた牢獄のなかの階段は幾重にも重なり、迷路のようになっている

*6:柱頭行者 柱の上で修行したキリスト教の苦行者。最初の柱頭行者はシリアのシメオン(4世紀頃)で、通常の修行方法に満足せず、他人に邪魔されないように柱に上ったらしい、その後5世紀から10世紀にかけて、シリアやメソポタミアなどに広まった。