パタフィジック、形成途上の宗教

訳者改題

 宗教の歴史は3段階から成ようである。いわゆる物質主義的宗教ないし自然宗教は、青銅器時代に完成の域に達していた。形而上学的(メタフィジック)宗教は、ゾロアスター教とともに始まり、ユダヤ款、キリスト款、イスラームを通じて発展し、16世紀の宗教改革運動に至っている。そしてついに、今世紀の初め、ジャリ*1イデオロギーとともに、第3の種類の、新たな宗教の基礎が築かれた。それは、22世紀頃には、世界全休を支配するかもしれない。それがパタフィジック教である。
 今日まで、パタフィジック*2の企てにその宗教的な意味のすべてが活用されてきたわけではないが、それはただ、パタフィジックが、内輪で『カイエ・デュ・コレージュ・ド・パタフィジック』誌*3を長く継続して発行していた信者たちの小さなサークルの外では、いかなる意味も持っていなかったからにすぎない。
 バタフィジックを世界ド紹介した栄誉は、アメリカ人に帰する。つまり、パタフィジックの暴君たちに語らせた雑誌『エヴァーグリーン』の特別号のことである。もちろん、そこでは、宗教という語が公然と発せられているわけではない。しかし、それが昨年アメリカのインテリゲンチャのあいだで収めた成功は、この新しい現象を客観的に分析する時期が始まったことを告げている。この結果、ほどなく誰もが問題の所在を知ることになるだろう。
 自然宗教は、物質的生活を精神的に確認するものであった。形而上学的宗教は、物質的生活と精神的生活の間の対立──それは常により深くなっていたが──が確立されたことを表していた。さまざまな形而上学的信仰は、こうした分極化におけるさまざまな段階を示すものである。自然宗教の祭式や礼拝への愛着のために、この分極化は困難であり遅れがちであったが、しかしそれらの祭式や礼拝は、多かれ少なかれうまい具合に、形而上学的宗教の礼拝や祭式や神話に姿を変えた。科学的な形而上学がすでに圧勝した時代にこうした文化的神話体系(ミトロジー)が存在することの不条理は、キルケゴールが、不条理を信じねばならないというキリスト教の堅信の秘跡聖霊の恩恵を与えて、信仰のあかしを立てる力を授ける秘跡〕を例に挙げて、明確に示した。次の問いは、では何故というものであった。その自明の答は、世俗の政治的・社会的権威は、自らの権力を精神的に正当化し続けるためにそれを必要としていたというものである。これは、古い神話体系すべてが根本的に批判され姶めた時代における、純粋に物質的で反形而上学的な議論であった。
 しかしながら、あらゆる方面から、新たな社会的要請に応えられる新たな神話体系が必要とされていた。まさにそうした形而上学的な引込線のかかに、シュルレアリスム実存主義、そしてレトリスムもまた、消えていった。この努力を辛抱強く続けた古典的レトリストは、どんどん──後ろ向きに──進んでいき、現代的で普遍的な信仰とは相容れなくなったあらゆる要素をせっせと収集するようになった。すなわち、メシアとか、さらには死者の甦りとかいった観念の復活であり、つまり、信仰の一方向的な性質を保証するものすべてである。政治屋が一瞬にして世界の終末を引き起こす手段を所有するようになって以来、最後の審判と何らかの関係があるものはすべて、国家的になり、完璧に世俗化された。物理的(フィジック)世界に対する形而上学(メタフィジック)的な反対は決定的に潰えた。闘いは完全な敗北に終わったのである。
 この論争の唯一の勝者は、真理の科学的な基準である。宗教の真埋か科学的真理と呼ばれるものと対立するなら、もはや宗教を真理と考えることはできない。そして、真理を表さない宗教は宗教ではない。パタフィジック教が乗り越えようとしているのは1つの対立*4である。パタフィジック教は、現代科学の基本概念の1つ、すなわち、同等なもの〔=等価なものequivalents〕の不変性という概念を、絶対的なもののレヴェルに位置づけたのである。
 キリスト教によってもたらされた、神の前では人は同等であるという考えによって、同等なものの理論のための下地はすでにできていた。しかし、その原則は、もっぱら科学と産業の発達にともなってはじめて、生活のあらゆる分野において必然となったのであり、また、科学的社会主義とともに、すべての個人の社会的同等性へと至ったのである。
 同等性の原理は、精神世界において、もはや軽視できなくなっていた。そのことが、科学的シュルレアリスムの計画をもたらしたのであり、それはすでに、アルフレッド・ジャリの諸理論のなかで素描されていた。キルケゴールの不条理という概念に、ただ、諸々の不条理の同等性(神々相互の同等性、そして、神々と人間と諸事物の間の同等性)という原理が付け加えられただけである。こうして、未来の宗教の基礎が築かれた。自分の陣地では無敵の宗教である。その宗教、すなわちパタフィジック教は、過去・現在・未来のありうる宗教もありえない宗教もすべてひっくるめて無差別に包含しているのである。
 もし、その宗教が世間にまったく気づかれずに済むということがありえたならば、また、パタフィジックの信仰が匿名で伝授され、決して批判を受けなかったならば、解決不可能に見えるパラドックスが生じることもなかったであろう。そのパラドックスとは、パタフィジックの権威の問題、神聖化不可能なものの神聖化というパラドックスである(つまり、パタフィジックが、他のさまざまな宗教のあとを受けて、同じ役割のもとに、社会生活のうちに出現したことである)。実際、この特殊な宗教は、同時に反パタフィジックにならなくては、社会的権威になりえない。そして、社会的に認められているものはすべて、ただ社会的権威ということからのみ、その権限を得ているのである。そういうわけで、パタフィジック教は、普及している形而上学的体系すべてに対して優位にあるにしても、知らず知らずのうちに、自らのその優位性の犠牲となるおそれが多分にある。というのも、優位性と同等性の両立が不可能なことは確かなのだから。
 パタフィジックの功績は、次のことを確証したことにある。すなわち、すべての人々に、同一の不条理を信じるよう強要することには、いかなる形而上学的正当性もない、ということである。不条理なものと芸術の可能性は多様である。この原理の論理的な帰結は、各人各様の不条理があるというアナーキーなテーゼとなろう。これと逆のことを表現しているのが法的権力であり、それは、社会の全構成員が国家の政治的不条理の規則に全面的に従うことを強要するものである。
しかしながら、現在形成されつつあるようなパタフィジックの権威を容認することは、パタフィジックの精神に対する新たなデマゴギーの武器になる、と言わなければならない。パタフィジックの綱領(プログラム)そのものが、パタフィジックの組織の存在を阻むのであり、パタフィジック教会などというものをありえぬものとしているのである。
 社会生活においてパタフィジック的な状況を創り出すことが不可能であるということはまた、パタフィジックの名において何らかの運動ないし社会状況を創り出すことも不可能にしている。その理由はすでに述べた。すなわち、同等性とは、状況や出来事の概念をすべて完全に排除するのである。
 それでもやはりパタフィジックが、外部から、ある種の文化状況のうちに位置づけられている今、この基本定義から引き出される不可避の結果は、必然的に、パタフィジックの信者らのなかに分裂を引き起こすであろう。すなわち、純然たる反シチュアシオニストと、パタフィジック的な同等性の基礎の上に立ちながら、遊びと呼ばれる組織的な不条理を発展させることに賛成する者との間の分裂である。
 遊びは、世界へ向けてのパタフィジック的な開口部であり、そのような遊びの実現とは、状況の創造である。それゆえ、パタフィジックの信奉者のだれもが出会う致命的な問題によって、1つの危機が引き起こされる。その問題とは、社会のなかで活動を始めるためにシチュロジー*5の方法を適用するか、それとも、いかなる状況のなかでも行動することをきっぱりと拒否するか、どちらかを選ばねばならないという問題である。この後者の場合に、パタフィジックは、まさに、スペクタクルの現代社会に正確に適応した宗教になる。それは、受動性と純然たる不在の宗教である。
 これに劣らず重大な問題が存在する。その問題は、反組織者の組織、すなわちシチュアシオニスト・インターナショナルを選ぶことを要請する。SIは、パタフィジックの原理を反形而上学的な方法として完全に適用することができる。それを直接なしとげるには、新しい遊びを確立せねばならない。優位性の不条理と不条理な優位性が、この遊びの鍵である。そして、権威が、この遊びの本質的な対象である。出発点として同等なものの原理を適用することによって、遊びは自由なものとなる。すなわち、一見まったく優位性と権威にしか見えないもののなかに、状況を完全に構築することができるのだ。しかし、その逆に、どんなものであれ形而上学的な基礎が選ばれるなら、シチュロジーは、自動的に、権威主義的に管理される大衆的な気晴らしの方法のレヴェルに堕してしまうだろう。そうなると、食物(パン)と見世物(スペクタクル)〔が必要だ〕という隷属の古典的決まり文句の繰り返しになってしまう。
 外には知られていないさまざまなサークルでの長い熟成期間の後に、新しい遊びの基本要素が、今、姿を現しつつある。それは体制を補完する要素なのか、体制の敵となる要素なのかは、将来の発展だけが教えてくれるだろう。

アスガー・ヨルン   


 アスガー・ヨルンは、SIからの脱退の直前に、本稿や他のいくつかの発言を通じて、シチュアシオニストに、パタフィジックイデオロギーの宗数的な影響力の危険性を警告することに努めていた。パタフィジックイデオロギーは、『エヴァーグリーン・レビュー』の編集部の宗旨変え以来、米国で大いに広まっていたのである。
 パタフィジックイデオロギーは、現代芸術のさまざまな企てに参加していた何人かの年寄りに支えられているが、それ自体、今世紀前半の「現代芸術」の老化の産物である。パタフィジックイデオロギーは、極端に停滞して非創造的な冗談のなかに、「現代芸術」の原理を、冷凍保存しているのである。パタフィジックイデオロギーは、世界を容認し、そうすることで、他のあらゆる宗数的失望の跡を継いでいる。B・ヴィアン*6は、ラジオで次のように述べていた(『ドシエ・デュ・コレージュ』誌 第12号を参照のこと)。「パタフィジシアンは、実のとこころ、道徳的である理由もなければ、道徳的でない理由もない。だからこそ、パタフィジシアンだけが唯一、順応主義者に落ちぶれることなく今でも誠実でいられるのである」。
 言うまでもなく、ヨルンが思い描いた〔パタフィジシアンとシチュアシオニストとの〕出会いの可能性は、最も聖職者的でないパタフィジシアンたちの分派・転向という彼の展望のもとでしか考えられない。SIは、どんな宗教も、他の宗教と同じく、お笑い草であると見なし、あらゆる宗教に等しく敵意を特つことを断言する。たとえそれが、サイエンス・フィクション教であっても。

*1:アルフレッド・ジャリ(1873−1907年) フランスの劇作家、小説家。戯曲『ユビュ王』(1896年初演)などで、不条理な暴力を体現し、破壊的な笑いを誘う主人公ユビュ親父を創造した

*2:パタフィジック ジャリの造語。小説『フォーストロール博士言行録』(1898年頃作で死後の1911年刊)でジャリ自身が次のように定義している。「付帯(エビ)現象とは、現象にさらに付け加わっているものである。バタフィジックの語源はエビ(メタ・タ・フジカ)と記されるに違いない〔訳注。エピもメタも「〜の後に来るもの」を示す接頭辞〕(中略)。 パタフィジックは、形而上学(メタフィジック)に──その内部にであれ外部にであれ──さらに付け加わっているものの科学であり、形而上学が物理学(フィジック)を超えて先へ広がっているのと同じだけ、パタフィジック形而上学を超えて先へ広がっている。そして、付帯現象はしばしば偶然の出来事であるから、パタフィジックは──科学と言えるのは普遍の科学だけだと言われようとも──特殊の科学になるであろう。 パタフィジックは、例外を支配する諸法則を研究し、この世界に追補される世界を解明するであろう。(中略)定義──パタフィジックは、虚数解の科学であり、仮想性によって記述される事物の輪郭と属性とを象徴的に一致させるものである。」

*3:『カイエ・デュ・コレージュ・ド・パタフィジック コレージュ(研究機関、幹部会)・ド・パタフィジックは、『ロベール大辞典』『トレゾール大辞典』によれば、「ジャリの想像上の産物である『終身管財人(フォーストロール博士)と選挙て選ばれる副管財人とによって運営され、コレージュの正教授職の座を占める摂政たちからなる機関」であるが、現実には、伊東守男氏によれば、1948年、レイモン・クノーらによって創立された、ジャリのパタフィジックにに共鳴する人たちを集めた結社である。ジャリを始めとし、ネルヴァル、ボードレールランボーらの研究をする学術団体のようなものであるが、実際はピラミッド型のヒエラルキーを持った半秘密結社である」(早川書房版『ボリス・ヴィアン全集』第1巻の訳者解説より)。『カイエ・デュ・コレージュ・ド・パタフィジック』はその機関誌である。

*4:1つの対立 「1つの対立」は「この対立」の誤植。

*5:シチュロジー アスガー・ヨルンの造語。シチュアシオニストの論理、もしくはsitu(場)に関する論理を指すと思われる。ヨルンの論文「開かれた創造とその敵」を参照。そこではシチュロジーは、トボロジー、シチュグラフィーなどと関運づけて詳しく論じられている。

*6:ボリス・ヴィアン(1920−59年) フランスの作家。その活動は、ジャズ・トランベット奏者、作詞・作曲家、歌手、俳優、レコード会社のディレクター、自動車技師など、非常にに多方面にわたる。文筆関係でも、小説・戯曲・詩の創作にとどまらず、音楽評論や、アメリカのミステリー・SFの翻訳なども手がけた。代表作とされる小説『日々の泡』(邦訳題名は、他に『うたかたの日々』もある)(47年)は、発表時にはほとんど無視されたが、彼の死後の60年代に、驚異的なミリオン・セラーとなった。なお、ヴィアンは、1952年に、コレージュ・ド・パタフィジックに正式加盟している。