綱領の粗描

 「ツァラトゥストゥラは諸身分の間の闘争が終わったことに満足している。個人のあいだの階級秩序の時代がやってきたことに。平準化という民主主義的体制に対する彼の憎しみは、前景におかれているに過ぎない。事実、彼は現状がそうなっていることを喜ばしく思っている。これ以降、彼は自分の問題を解くことが出来るようになるだろう。」

ニーチェ『正午と永遠』(遺稿断片、著作集第12巻417ページ)


 <非−本来>の概念は、階級と党のあいだでかたちづくられうる政治的な関係と、革命が持続する期間にその関係から生まれるさまざまな帰結に対応している。<非−本来>は、一切の未来の否定でも、所与の条件から何らかの政治的な見通しを立てる可能性でもない。それは、現在の状況がそのうちに断片として未来を含んでいる限りで、その未来のまったく現実化であり、また同時に、直接的なものを支配するための手段の探求でもある。
 <非−本来>は、20世紀の革命的時間性についての総体的な観点の政治への適用である。その諸テーゼは、資本主義諸国、社会主義諸国、それに、低開発諸国という3重になった発展過程によってわれわれに明らかにされる社会的諸事実についての客観的研究から切り離すことは出来ない。この発展過程の中で、アクチュアルな諸問題のあいだの弁証法が、どの国にあっても等しく重要なものとして確立される傾向にある。これらの国々に個別の問題を一続きのものとして機械的に結びつけることは出来ない。平和共存という観点に──たとえ、それがダイナミックなものであったとしても──はまり込んで、身動きが出来なくなるからである。共産党のルイ=フィリップ主義はたちによって、現在実際に表明されているような平和共存論は、ロシアにおいてと同様に、先進国においても、あるいは、第三世界においても、革命的立場の放棄である。
 <非−本来>は、資本主義諸国のもっとも発展した生産力は、それらの国で、いまからは、社会主義社会への移行段階を節約することを可能にするにちがいないという確信に基づいている。これらの国々では、技術的手段の蓄積や、非人格化へとつねに向かっていく傾向などによって乗り越えられてしまった生産関係の表現である政治的手段の全体を脱神秘化するという課題に着手しさえすれば、社会主義の実現は日程に上がることになるだろう。すべての条件は、社会主義の諸目的のために用いられる生産手段の領有という1点に集約される。
 生そのものの持続の、日常的な転覆は、すべての状況の宇宙的かつ非宇宙的価値を前提にしている。われわれのすぐ目の前に広がるこの無限の極限、この歴史をかたちづくる革命の蓄積の極限において、生[=生活]の豊かさは、つねに拡大し続ける再生産を求める。
 また、これと等しく<非−本来>は、反植民地主義革命に対する決定的な評価にも基づいている。これらの第三世界の国々では、その生産力の発展は、そのそもそもの始まりから、官僚機構との闘争の過程である。その官僚機構が、植民地支配から引き継いだものであろうと、あるいは、社会主義国で用いられている計画化の方法を導入したものであろうと同じことである。第三世界諸国は20世紀革命の基軸をなしているのである。なぜならば、それら諸国の独立の達成は、2つのブロックの、活力あるさまざまな力を融かし合わせる坩堝を形成することでもあるのだから。これらの国々では、原始共同体以来はじめて、西で生まれたものと東で生まれたものとが、これらの国の発展にブレーキがかからないという限りで、完全に独立した社会の形態のうちに、ひとつに合わさり、混じり合うことが可能になるのである。
 最後に、<非−本来>は、現在の状況は、いかなる場合にも、平和の状態としても戦争状態としても考えることは出来ないのだという確信にも基づいている。平和も、戦争も、もうこれ以降、不可能である。しかし、国家は自動的に消滅していくなどと考える純粋に進化主義的な観念で革命を捉えている限りは、革命もまた不可能である。<非ー本来>は、何よりも、ロシアと中国には階級なき社会が実現しているということを重視する。この事実を意識するならば、加速された革命過程は、遂には、社会化された大衆の社会にまで達するに違いない。


 社会主義は、それがいかなる領域のものであれ、もはや、たんに資本主義に対するアンチテーゼに限定されえない。社会化された大衆の到来を遅らせるもののすべては、社会主義社会(移行期であると否を問わず)のただ中で再生した疎外として存在する。
 問題なのは、階級なき社会によって変容させられた歴史的関係が、古くからある階級と党の関係や、階級と組合の関係への復古にならないように、この大衆に、「最大限の可能意識」を持たせることである。社会化された大衆は自律した社会的な力として行動するマルクスが望んだように、政治も経済も消滅すべく求められているとするなら、それらのものとともに、階級闘争のための党や組織も消え去らねばならないということは明白である。党や組合がその使命をうまく果たすことができたのであればあるほど、階級なき社会ではそのようなものなしで済ますのは容易になるにちがいない。階級なき社会は、政治と経済を廃棄した後に存続するものである。それというのも、そのとき、大衆の政治意識というものが意味しているのは、生産関係を克服できるほどの生産力によって解き放たれた大衆のあいだでの断絶──順応ではなく──なのだから。社会化された大衆が敏感に反応することや根こそぎにさていることは、もはや、罠ではない。そうではなくて、革命の必然性がありとあらゆる瞬間に生まれるための第1の条件なのである。


 社会化された大衆の政治的表現は、それが一切の政治の消滅をめざすものである以上、人類総体が、不均等発展という歴史法則から免れるような状況の可能性の探求を、歴史上はじめて達成されたものとして、その第一目標とする。革命は、そのために設えられた劇場となるのである。
 今後は、重要なことは、宇宙空間の征服、技術それ自身による技術的環境の消滅である限りでの自然に対する闘争と理解された人間の労働、階級なき社会における宇宙的意識の出現、人間関係における一切の機能的な記号の廃棄、新しい感情と予見不可能な転覆の誕生こういったものが人類のすべてを、しかも同時に、余暇と労働の弁証法に基づくこの文明段階へと導くプロセスをどのように加速させてゆくのかを知り、また、規定してゆくことなのである。


 このような死んだ時間なき歴史の創造は、実存的マルクス主義哲学と結びついている。偶然性を再発見した個人の生を計画化するという考えによって、時間−空間的な現前の哲学を素描することが可能になるだろう。その哲学では、感覚と感情は、もはや、記憶に依存しない。そうではなくて、感覚や感情というものは、経験の複数化と更新によって、もはや、あるときは集団的な経験、別のときには個人的経験という区別もなく、存在の一切の潜在性を開花させるものになる。想像的なものそのものとして現実化可能な経験、それはすべての行為のうちにある。同時に集団的であり、かつ、個人的なものなのである
 生そのものの持続の、日常的な転覆は、すべての状況の宇宙的かつ非宇宙的価値を前提にしている。われわれのすぐ目の前に広がるこの無限の極限、この歴史をかたちづくる革命の蓄積の極限において、生[=生活]の豊かさは、つねに拡大し続ける再生産を求める。その再生産というのは、もはや、習慣のそれではないし、スタイルの再生産でもない。それは、不可能なものとなった日常の再生産なのである。地上的な価値と宇宙的なそれとのあいだの新たな敵対関係は、自明性の伝達可能性だけでは解消することはできないだろう。


 自由の諸条件は、個人の生の計画化によって実現されると、[それ自体が]価値となるだろう。だがその価値は、状況の構築の多様な質的度合いをコントロールしたり、使いこなしたりするわれわれのさまざまな資質のうちに、現に存在しているか、猶予状態として存在しうるものである。在る、持つ、為す[=作る]というような概念は、この自由の出現とともに消滅するだろう。実践による、すべての哲学の否定が始まりである。自由とは、時間性の宇宙開闢論として、そして、構築された状況の非宇宙開闢論として定義されよう。自由、この流動的で、しかも、強靭な、あらゆるエネルギーの構造は、人間誰でも持っているはずの能力、われわれ1人1人が、世界が変えられるのを見たいと望むところにしたがって、世界を変えていけるという能力によって、古くからの「自由な人間」と「不自由な人間」との類型論を超えることを可能にしてくれるだろう。その能力は、もともとはこの能力であったものに対抗して完成させられるのである。


 生成の3つの領域は、
 A 状況の構築の領域。この自由の能力が、各人の生のスタイルを全体的な作品として、すなわち、そのような全体にたどりつくまでの、散り散りにされた手段や、断片的な意味(宇宙的、政治的、芸術的、等々)に過ぎないもののすべてにこうして生きられた全体性の永続的な現実化として、書き込むのが、まさにこの領域である。これは、もはや願望や指摘の段階にとどまっているのではなく、現に実行に移されたラディカルな批判としての実践(プラクシス)の領域であるだろう。
 B 個人の生[=実存]の計画化の領域。これは、1度確立されるや、「幸福−苦悩」という二律背反的な感覚を含めた、これまでに知られたあらゆる感情を乗り越える可能性である。感情は、これ以後、宇宙的エネルギーと結合するのであるから、非人間的であるよりは超人的である、とはいわないまでも、人間的なものとは別の感情になるのである。
 C 知性の悲劇の領域。これは抽象的な2つの世界(ひとつは自然に対する闘争から生まれる世界、もうひとつは、反対に、人間による宇宙の支配に由来する世界)からなる領域である。この意味では、知性の悲劇とは、おそらく、知性が自然状態としての狂気をさけることができないということではない。そうではなくて、自らをつねに狂気の側に位置づけること、そして、悲劇に先立つ自分の場所がまさにそこ、狂気のこちら側であると認めないこと、これこそが知性の悲劇なのである。

アンドレ・フランカン*1

 社会主義社会(それ自体が移行期である)における状況の構築に関する理論的な基本要素として、プログラムの断片的で簡略なアウトラインがここに示されている。そして、この文書には、日常生活の革命の全体的な内容の定義のためにわれわれが招集しようと計画しているワーキング・グループのための、最初の叩き台としての意味もある。

*1:ベルギー出身のシチュアシオニスト。1961年に脱退。シチュアシオニストの活動と平行して『アルギュマン』誌にも協力しており、同誌に「W・ライヒと性の経済」(第18号、1960年)、「党、日常的なもの」(第25−26合併号、1960年)などを発表。