経済の終焉と芸術の実現

訳者改題

 時間とは、人間にとって、空間を観察するある1点から見た一連の現象のことにほかならないし、また空間とは、時間、あるいは、プロセスの中での諸現象の共存の秩序のことである。
 時間、それは空間の中で進行する変化という形式を通してのみ知覚しうる変化である。一方、空間とは、ある運動へと参与することを通じてのみ知覚しうる不動性である。空間も時間も、変化の、あるいは、プロセスの外では、言いかえるならば、時空間の能動的な(行為による)結合の外では、どんな現象も価値を持たない。時空間の行動(アクション)はプロセスであり、そして、このプロセスはそれ自身が、時間の空間への変容であり、空間の時間への変容なのである。
 かくして、質の増大が、あるいは、変化への抵抗が、量的な増大に負うものであることを、われわれは理解する。これらの2つの増大は、ともなって進む。社会主義的進歩の目的は、この発展にある。すなわち、量の増大による質の増大に。それは、この二重の増大が必ずや価値の、時空間の減少と一致することを認める。それが、まさに、物象化というものなのだ。(………)
 価値を規定する大きさ、それは瞬間ないし出来事としての時空間である。地球上での人類の生存のために取っておかれた時空間は、出来事のうちにその価値をあらわにする。出来事のないところには歴史はない。人間生活の時空間、それは、人間生活の私的所有である。これこそが、人類解放の展望におけるマルクスの偉大な発見であり、それと同時に、マルクス主義者たちの過ちの出発点でもある。なぜなら、所有物は、現実のものとなってのみ、解放されてのみ、用いられてのみ、価値となるからであり、人間生活の時空間を現実へと持ち来たらすものは、この可変性だからである。そして、個人から社会的な価値を作り上げるもの、それは、他者とのかかわりにおける個人の振る舞いの可変性である。権威主義的な社会主義においてそうであるように、もしも、この可変性が奪われ、社会的な価値形成から追放されるなら、人間の時空間は現実のものとなることができない。このようにして、人間的諸特性の私的(プリヴェ)な性格(「趣味(ホビー)」)は、生産手段の私的所有よりも、はるかに大きな人間生活の価値剥奪(プリヴェ)ということになる。なぜなら、社会主義的な決定論では、無用なものは実在しないのだから。社会主義は、所有の私的性格を廃棄するかわりに、それを極限にまで増大させることしかしてこなかった。人間そのものが、無用で、社会的には存在していないようになるほどまでに。
 芸術発展の目的、それは、人間的な質を現実的な価値に変形することによって人間的な価値を解放することである。そして、そこから、社会主義的発展に対抗する芸術革命が、共産主義のプロジェクトに結びついた芸術の革命が始まるのだ。(………)
 芸術の価値とは、このように、実際的な価値との関係でいえば、反価値(コントル・ヴァリュ)であり、それらの価値とは反対の方向で測られる。芸術とは、観客(スペクタトゥール)がそこに持ち込むことができるもののほかにはこれといった目的もない、エネルギーの支出への誘いである。それは浪費なのだ。(………)しかしながら、芸術の価値は、その持続性、その質にあるものと思われてきた。金や宝石は芸術的価値であり、芸術的価値は、モノそれ自体に内属する質であると信じられてきた。芸術作品とは、価値の本質的な源泉としての人間の確証であるというのに。(………)
 資本主義革命は、本質的には浪費の社会化であった。資本主義的な産業化は、社会主義者が提議した社会化、つまり、生産手段の社会化と同じ程度に深いレヴェルでの社会化を人類にもたらした。社会主義革命は資本主義革命の完成である。資本主義システムから取り除かれるべき唯一の要素は、倹約である。なぜなら、消費の豊かさは、既に資本家自身によって取り除かれてしまったからだ。今日、その消費がもっともけちくさい必需品の額を超える資本家を探そうとしても、そんなものにはめったにお目にかかれはしない。17世紀の大貴族とロックフェラーの時代の大資本家のあいだの暮し向きのちがいはグロテスクなほどであり、その差は、ますます広がりつつある。
 消費の可変性の豊かさは、資本主義によって節約されてしまった。なぜなら、商品とは、社会化された使用対象にほかならないからだ。それだから、社会主義者たちは、使用対象にかかずらわることを避けるのである。
 使用対象の社会化、それが、その対象を商品とみなすことを可能にするのだが、それは3つの主要な側面を持っている。

 a 共通利害の使用対象が、ただそれだけが、きわめて多くの人々の欲望の対象となることで、商品として用いられうる。理想の商品とは、万人の欲望の対象である。産業的生産への道を、このような社会化へと向けて開いてゆくには、資本主義は、個人的で職人的な生産という理念を破壊しなければならなかったし、それを「形式主義」的なものにしなければならなかった。

 b 商品について語ることができるには、全くよく類似したモノの一定量が必要である。産業はシリーズ化され、ますます大量に量産されるモノにしか手をつけない。

 c 資本主義的生産は、信じがたいほどの莫大な量に達した大衆消費の普及によって特徴づけられる。社会主義的生産への要求は、社会化された消費への要求の論理的帰結に過ぎない。

 貨幣は、完全に社会化された商品である、それは、すべてのものに共通な価値の尺度を指し示すのだから。(………)
 社会化は、絶対的な倹約に基づいたシステムを現実に築きあげる。実際、使用対象のことを考えてみよう。使用対象は、直接的には役に立たなくなるとき、消費と生産のあいだの因果関係が断ち切られるときに、商品になるのだということをわれわれは指摘した。使用対象が倹約の対象となり、貯蔵物となるとき、それは商品へと変貌する。そしてこのことは、使用対象が一定量以上貯えられているかぎりで可能である。この在庫というシステム、これが、商品の根本にあるのだが、このシステムを、社会主義は、排除しない。むしろ逆である。社会主義システムは、一切の例外なしにすべての生産を、分配に先立って、この分配の完全なコントロールを保証するという目的のために、在庫化するのである。
 現在にいたるまで、誰も、蓄積を──在庫であれ倹約であれ──それに固有の形式において分析してはこなかった。すなわち、容器という形式において、である。在庫品は容器と内容の関係との相関において形成される。われわれは最初のところで、実体──それが、しばしば内容と呼ばれるのだが──その実体とはプロセスにほかならないことを述べておいた。内容の形式のもとで、その実体とは、貯えられた[=在庫状態にある]質料=素材であり、潜勢力である。しかし、われわれは、いつも、実体を、それに固有の安定した形式によって考えてきた。容器の形式は、それの内容の形式とは、反対の形式である。その機能は、コントロールされ、限定された条件のもと以外では、内容がプロセスへと入るのを妨げることである。容器ー形式とは、このように、質料=素材それ自体の形式とはきわめて異なる何かである。質料=素材には、内容の形式しかかないのだから。ここで、ひとつの項が他方と絶対的な矛盾関係におかれる。容器が基本的な機能を果たすようになったのは、ただ、生物学的な領域においてのみである。すべての生物は、いわば、容器−形式を質料=素材の形式に対立させながら進化を遂げてきた。そして、技術の発展も同じ道をだどっている。すべての計測と、科学的コントロールのシステムは、対象の形式を容器−形式と関係づけるものである。
 容器−形式は、測定され、尺度づけられた諸形式の矛盾として作り出される。容器−形式は、通常は、内容の形式を隠してしまう。そして、そのようにして、第3の形式を獲得するのだ。すなわち、見せかけの形式を。これら3つの形式は、形式をめぐる議論において、これまで、明確に区別されることは全くなかった。(………)
 貨幣は、社会空間における時間の尺度である。(………)貨幣は、所与の空間に、社会の空間に、同一の速度を押し付けるための手段である。貨幣の発明は、「科学的」社会主義の基盤となるものであり、そして、貨幣の破壊は、社会主義的メカニズムの乗り越えの基礎となるであろう。貨幣は数字へと変形された芸術作品である。現実のものとなった共産主義は、日常生活の総体へと変形された芸術作品であるだろう。(………)
 官僚制こそは、それが出現するところではどこでも(資本主義だろうが、修正主義であろうが、いわゆる「共産主義」権力であっても)、現代世界で対抗しあうさまざまな勢力にある一定の流儀で共通する反革命的な社会化の現実化として現れている。官僚制は、社会の容器ー形式なのである。それは、プロセスを、革命を堰き止める。経済のコントロールの名のもとに、官僚制は何にもコントロールされずに経済化を推し進める。(それ自体の目的のために、今存在しているものの維持のために)。それは一切の権力を握っている、ただし、物事を変化させる権力は別であるが。そして、一切の変化はまず何よりも、官僚制に対抗するものになる。(………)
 実現された共産主義は、自由と価値の、そして、コミュニケーションの領土への跳躍であるだろう。芸術的価値は、有用物の価値(通常は物質的価値と呼ばれている)とは反対に、進歩的な価値である。なぜというに、それは挑発のプロセスを通じて、人間そのものの価値を増加させるのだから。
 経済的政治は、マルクス以来、その無力さと転倒ぶりを示してきた。ハイパー政治[=政治を超える政治]というものこそが、人間の直接的な現実化に向かうにちがいない。


アスガー・ヨルン


 このテクストは、SI報告集のシリーズ(ブリュッセル、1960年5月)のひとつとして編集されたヨルンのパンフレット『経済的政治の批判』からの抜粋である。

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