ポトラッチ 20

レトリスト・インターナショナル・フランス・グループ情報誌────── 月刊

1955年5月30日

●1955年5月、共和派ジャーナリズムはマリー=アントワネットのむかつくような死体にほろりとした。

「寛容は陰謀家のものであり、厳正さは民衆のものだ。20万人の愛国者の血が流され、忘れられたことが何の意味もないかのようだ」。
サン=ジュスト革命暦2年風月8日の報告)

〔中略〕

夜の編集部

「未来なき小さな状況を自分自身で構築せよ」というビラは、現在、心理地理学的に適した場所を中心に、パリの壁に貼りだされている。
 このビラ貼りに喜びを感じたわれわれの読者は、『ポトラッチ』編集部に来て、他のビラを要求することができる。

建築と遊び

『遊びの社会的機能についての考察』のなかで、ヨハン・ホイジンガ*1は、「(……)文化は、その原初的な段階においては、遊びの特質を帯びていて、遊びという形態を取って、遊びの雰囲気のなかで発展する」ことを明らかにした。著者の潜在的な理想主義、遊びのすぐれた形態を社会学的観点からの狭い視野でしか評価していないことは、彼の著作がもたらしたものの価値を下げるものではない。それに、建築や漂流に関するわれわれの理論に、遊びの情熱以外の動機を探そうとしても無駄である。
 世界で起こるほとんどあらゆるものの光景が、われわれの怒りと嫌悪を引き起こすのと同じだけ、われわれはますますあらゆるもので楽しむことができるようになってきた。ここで、われわれが皮肉屋であると思う者は、あまりに単純である。われわれを取り巻く生活は、理不尽な必要に従うためにできていて、無意識のうちにその本当の欲求を満足させる傾向をもつのである。
 こうした欲求とその部分的な実現、部分的な理解は、いたるところでわれわれの仮説を確証する。たとえば、パリで最も強い環境的統一をもつ地域(ムフタール街、トゥルヌフォール街、ロモン街の集まる地域*2)の境界に、「世界の果て」という名のバーがあるのは偶然ではない。出来事が偶然とされるのは、出来事が属するカテゴリーの一般原理を知らない場合に限られている。功利的な諸要請(その力は常に弱まっていくだろう)のほかに、ある1つの状況を決定する諸要素について、できる限り広い認識を得るよう努めねばならない。
 建築に対して望まれるのは、生活に対して望まれるのにかなり近い、秩序ある構成である。いわゆる素敵な冒険的試み(アヴァンチュール)は、その枠組みとして、あるいは起源として、美しい地区からしか生じ得ない。美しい地区という概念はやがて変わるだろう。
 すでに、今現在、いくつかのひなびた地域の雰囲気を味わうことができるのだが、そうした地域は漂流に適しているだけに、居住にはまったく適していない地域である。体制が、このような地区に一般勤労者大衆を閉じこめているのは、破廉恥極まりない。『都市計画は1つの鍵だ』のなかで、ル・コルビュジェ自身が、高度に産業化しか国々では、建築が無秩序的で悲惨な個人主義に陥っていることを考慮するならば、「(……)低開発は欠乏の結果であるのと同じくらい、余剰の結果である」ということを認めている。この指摘は、当然、両刃の剣として、中世趣味の「垂直に広がる地域共同体」の主唱者に向けられ得るだろう。
 さまざまな輩が、一見したところ同じやり方で、いくつもの意図的に常軌を逸した建築を企ててきた。それは、バイエルンルートヴィヒ2世*3の数々の有名な城館から、ダダイストのクルト・シュヴィッタース*4がトンネルを開け、コンクリートで固めたオブジェの柱の森で錯綜させたと言われる、あのハノーヴァーの家に至る。こうした建造物は全てバロック趣味に入るが、こうしたバロック的性格は、完全に決定的な総合芸術の試みにおいては、いつもはっきりと目立っている。この点で、バイエルンルートヴィヒ2世ヴァーグナーの関係に注目すべきだろう。ヴァーグナーは、結局のところ、このうえなく虚しく終わったが、このうえなくひどく苦労して、芸術の総合を探求しなければならなかったのである。
 ここではっきりと言っておかなければならないのは、もし、われわれが価値を認めるにいたった建築表現が、何らかの点で素朴芸術に類似しているとしても、われわれはそれを、それとは別のものとして、すなわち、「前衛」には経済的にほとんど手の届かない芸術種目の、利用されていない未来の力の具体化として、考えているということである。素朴さという表現様式の大半に奇妙に結びついた商品価値の利用には、家父長主義という社会的態度によく似た、明らかに反動的な精神構造の発露を認めないわけにはいかない。かつてないほどに、われわれは、何らかの尊敬に値する人々は、あらゆることに答えられねばならないと考えている。
 われわれは今のところ都市計画の偶然性と影響力を利用するに甘んじているにすぎないが、そのような偶然性と影響力の実際の構築に、最大限に参加することが、あくまでも、われわれの目的である。
遊びの一時的で自由な領域を、ホイジンガは、義務感によって特徴づけられる「日常生活」と対立しうるものと考えているが、われわれは、それが、不変と信じられているいくつものタブーによって不当に制約されている、本当の生活の唯一の場であることを知っている。われわれが好む行動は、その完全な発展に都合のよい条件をすべて整備することを目指している。今や、ゲームの規則を恣意的なしきたりの段階から道徳的な基礎付けに移さなければならない。

ギー=エルネスト・ドゥボール

〔後略〕

『ポトラッチ』編集長 M・ダフ

パリ5区、モンターニュ=ジュヌヴィエーヴ街32番地

*1:ヨハン・ホイジンガ(1872-1945年) オランダの文化史家。代表作に『中世の秋』(1919年)、「ホモ・ルーデンス」(38年)がある。後者のフランス語訳は50年代初頭に行われている。ここで引用されている文章は『ホモ・ルーデンス』第3章「文化創造の機能としての遊びと競技」の冒頭部分(高橋英夫訳、中公文庫、111ページ)。

*2:ムフタール街、トゥルヌフォール街、ロモン街の集まる地域 パリ5区の中央部、サント・ジュヌヴィエーヴの丘の上に位置する庶民的な市場やレストランで賑わう地域。『ポトラッチ』の編集部があったのもこの地域である。レトリストたちはこの地域を、ムフタール街の起点に位置するコントレスカルプ広場の名から「コントレスカルプ大陸」と呼び、「コントレスカルプ大陸の位置」(『裸の唇』誌第9号、1956年9月)などの文章のなかで、その「心理地理学」的な描写を試みている。

*3:ルートヴィヒ2世(1864-86年)若くして父マクシミリアン2世の後を継ぎバイエルン王となった。理想主義にあふれたロマン主義者で、芸術の支援を多く手がけた。特にワーグナーに心酔し、そのオペラに用いられた神話から発想した幻想的な装飾を施した城ノイシュヴァンシュタイン城を建てたことでも知られる。

*4:クルト・シュヴィッタース(1887-1984年)1919年、釘・紙・布などを寄せ集めた「メルツ絵画」(「メルツ」は「コメルツ Kommerz 商業」からの切り取り)を制作。1921年、ハウスマンらと接触し、翌年ワイマールのダダ会議に参加、ダダの終結後は構成主義に進む。1924年、ハノーヴァーの自宅にメルツ芸術を集大成して建設した「メルツバウ」は、構成詩『原(ウル)ソナタ』とともに彼の代表作となる。1933年ドイツを去り、1940年イギリスに移住。