UGACとその民衆

 3月に、数名のシチュアシオニストが「アナキスト共産主義者グループ連合」〔UGAC〕*1(住所は、パリ10区、私書箱114、エディット・ダール)のメンバーたちとたまたま出会い、今後の議論を進めてゆくという原則を受けいれたが、自分たちの批判は手厳しいものになることは包み隠さず言っておいた。事実、UGACの諸テーゼは、凝り固まったアナキズムイデオロギーを乗り越え、マルクス主義の何らかの革命的な寄与を考慮に入れると提案しておきながら、実際には、あたかもまったく新しく、まったく議論の余地がないものであるかのように、低級なレーニン主義の最悪のイデオロギー的−組織論的残滓に与しつつあるからだ。それなのに、このアナキスト共産主義者たちは、自分たちが「国際アナキズム運動に宛てて」出した資料のなかで前年に表明していた立場を越えたと言っていた。確かに越えたのだろうが、越える方向を間違えていた。というのも、彼らのビラのうち、その後まもなくわれわれの目にすることのできた1つには、真理に反する以下の2つの断言と、見てのとおりの薄弱な論拠とが結び合わされていたからである。彼ら日く、「ユーゴスラヴィアでは労働者委員会が企業を管理している。ヴェトナムではヴェトコンが人民による自主管理委員会を創っている。フランスでも、そうあっていいではないか」。
 われわれはすぐに彼らに手紙を書き「あのビラから見て、君たちと会うことはできないことを理解してもらいたい」と述べた。彼らはわれわれに返事をよこした(追伸には、アルシノフ*2の『マフノ主義運動の歴史』から文章が引用されていたが、この引用を読めば、UGACはさしあたり1917年革命を再開するつもりであるらしい)。以下は文字通りのその返事である。
 「同志諸君、まさしくあのビラから見て、われわれが会えなかったのは残念である。明晰な社会批判から、民衆層にそうした批判が聞き届けられるレヴェルで彼らと触れるための手段──これは、民衆扇動とはまったく別ものだ──へと移行するにはどうすればよいのか、まさにその移行の仕方をめぐって会えなかったのは。君たちの弁証法的精神からすれば、君たちもきっとそのように感じるはずだと思う。もっとも、その弁証法的精神の質には、貴族的慣行──それが、たとえ尊大なまでに革命的であろうとも──とは別のものが含まれているようにわれわれには見えたのだが。」
 「民衆層」についてのこのような考え方は、注釈するまでもないように思われる。

*1:アナキスト共産主義者グループ連合〔UGAC〕 60年代後半のフランスの行動派アナキスト共産主義者で結成され、66年秋に「世界の同誌への手紙──何をなすべきか」(ここで「国際アナキズム運動に宛てて」出されたUGACの資料とは、これを指すと思われる)を発表、アナキストの歴史とイデオロギーの再検討と、現在の革命的運動へのコミットメント、革命的マルクス主義者との共同行動などを訴えた。

*2:アルシノフ ロシア人の歴史家で、マフノとも交流のあった人物。マフノとはウクライナアナキストで、1917年のロシア革命後、ドイツ軍占領下のウクライナで農民運動を指導したネストル・イワノヴィチ・マフノ(1889−1934年)のこと。5万名の農民軍を擁しゲリラ戦によってドイツ軍と戦い勝利したか、21年のドイツ軍撤退後、20年から21年にかけて続いていたボルシェヴィキソ連軍との職闘に敗れ、マフノはパリに亡命した。