容易に予見できるいくつかの拒否

 われわれが断罪してきたまさにその体制のなかに何らかの軽蔑すべき展示場所を取ってやるとわれわれに申し出ねばならないと信じている者がいるが、そうした輩に対して、われわれが突きつけた拒否のいくつかをここで指摘しよう。もちろん、情報を流すことの利益は、そうした拒否そのものにあるのではなく──それを知っても誰も驚くまい──、そうした申し出のいくつかによって証明されている間抜けなまでの厚かましさにあるように思われる。
 66年6月、シチュアシオニストは、あらゆる種類のスターリン主義者に門戸を開きハイデガー主義をまぶされた雑誌「アレテイア」*1に対して、「戦闘的行動(ミリタンティスム)」を扱うことになっていた同誌の特集号に参加するのを拒否した! 同年8月には、われわれは、ロンドンで9月に予定されていた「芸術における破壊に関するシンポジウム」への招待を断り、次のように指摘した。「芸術はしばらく前からすでに破壊されている(……)。今になって、残骸と残骸のコピーとしての平凡なスペクタクル──例えば、エンリコ・バイ*2──を組織することは、もはや破壊することではなくて、修繕することである。それは、芸術の完了期のアカデミー芸術になることだ」と。1月には、自由化の途上にある官僚主義の有名出版社マスペロ*3が、ストラスブールシチュアシオニストのパンフレット──読者のなかには、無意識にストラスブールまで探しに行った者もいるやつだ──を注文してきたので、われわれはその社主にこう書き送った。「間抜けなスターリン主義者よ、われわれのパンフレットがお前のところにないのは、偶然などではない。お前が軽蔑されているからだ」と。3月には、「強制収容所都市か社会主義的都市計画か」に関する討論の1つにだまされたと思って参加してみないかと、社会主義研究センターからSlメンバーの1人に申し出があったため、「そこで話す者にも、それに耳をかたむける者にも、われわれには興味がない」と答えねばならなかった。
 最高の拒否の栄冠はコスタス・アクセロス(前の箇所を参照せよ)のものだ。彼は、2月27日にわれわれに手紙を書き、ミニュイ社の「アルギュマン」叢書の編集長として、「試しに読んでみるのでヴァネーゲムの『〔若者用処世術〕概論』を送ってもらえないか」と言ってきたのだ。われわれは彼に手短だが乱暴な口調の返事を書いて送った。

*1:『アレテイア』誌 フランスの哲学雑誌であるが不詳。

*2:エンリコ・バイ(1924ー ) イタリアの画家。51年にミラノで「アルテ・ヌクレアーレ(核芸術)」という芸術流派を結成。52年、アスガー・ヨルン接触、54年からは、〈イマジニスト・バウハウスのための国際運動〉にも参加。55年には、「アルテ・ヌクレアーレ」の雑誌「イル・ジェスト」を創刊、当時のイタリアの前衛芸術の最前線を形成していた「アルテ・ヌクレアーレ」とルチヨ・フォンタナらの「空間主義」の拠点となる。57年、イヴ・クライン、アルマンら、フランスのヌーヴォー・レアリスムのメンバーと共同で、芸術における形式の反復とあらゆる商業主義に反対する「反スタイル宣言」を発表。「アルテ・ヌクレアーレ」以降のバイは、61年、合衆国での展覧会でマルセル・デュシャンと知り合い、2人して「コレージュ・ドゥ・パタフィジック」に参加する一方で、ピカソやスーラの作品のパロディ製作や、70年代 の金属彫刻など、旺盛な活動を続ける。参照

*3:フランソワ・マスペロ(1932− ) フランスの左翼出版社主。56年にフランス共産党に入党するがすぐに脱退、フルシチョフ報告を印刷して配布、書店と出版に乗り出す。アルジェリア戦争時は反戦運動に参加、ジャンソン機関にも関わり、裁判でジャンソンを支援する弁護を行う。その後、反植民地主義新左翼の本を多く出版する出版社として成長するが、運動を商売にしているという批判も受ける。