1世代のための展望


 狂気の社会が、人々への拘禁服の使用を一般化することによって未来に備えようとしている。この拘禁服とは、技術の粋を凝らした個人的、集団的な拘禁服(家屋、都市、整備された国土)であり、社会はそれを己がもたらした災禍に対する救済策としてわれわれに押しつけるのだ。われわれはこの組立式(プレハブ)の「非有機的身体」を受け入れ、自己の身体として認めるように促されている。権力は、個人を自分とは異なった自分自身、まったく別の自分自身というものの中に閉じ込めようと目論んでいる。権力にとっては死活問題であるこの仕事をやり遂げるために、権力は、役所の従僕たち(都市計画や国土整備の専門家)に加え、今日いわゆる人文科学の領域で残業に励んでいる道を誤った連中の力を借りようとしている。とりわけ人間学=人類学(アントロポロジー)──それは旧来の思弁的な人間学ではなく、構造的で操作的な人類学である──の分野の従儀たちは、さらなる「人間の本性」を引き出そうと懸命になっている。しかし、今度のそれは、警察の記録カードの流儀で、さまざまな操作の技術によって直接的に利用可能なものである。このように開始されたプロセスの最終的に行き着くところ(いたるところでこのプロセスに付きまとう新しい異議申し立ての勢力の昂進が、そのような余裕を残しているとすればであるが)が、かねてその真価を証明ずみの強制収容所という解決策の現代版であることは、今からすでにおのずと暴露されている。ただし、この強制収容所は地球全体に拡散した強制収容所である。人々はそこでは絶対的に自由であり、とりわけ行き来すること、巡回することについてはまったくの自由が許される。しかし、それは権力の小道を行き来する空虚な自由であり、人々はその完全な囚人なのである。
 われわれがいかなる点でも制御(除去)できていない支配的社会は、われわれを支配することによってしか自己を制御することができない。空間の整備に関する今日のさまざまなヴァリエーションが1つにまとまることによって、徐々にこの支配は物質化されつつある。寝室からアパルトマン、家、地区、都市、そして国土全体までが、次から次へと、あるいは同時的に整備されうるのであり、また整備されなければならないのである。そこでは、「団地で幸せに暮らす方法」(『エル』誌)から、いかに「(この社会を)人類全体にとって快適なものにする」(『ル・モンド』紙)かまでが一足飛びである。生き延びることへの現代社会の欲望は病的なものであるとともに無邪気に表明されてもいるが、この欲望について、現代社会は自らを全面的に成長にゆだねている。しかし、その成長なるものは、ただこの社会に固有の合理性、すなわち商品の論理によってのみ許された取るに足らない潜在能力をただ凡庸に発展させることしかできないものである。つまり、「人間の否定の論理的完成」としての経済学がその壊滅的な仕事をやり続けるのである。さまざまな経済政策や経済理論は華々しく(スペクタキュレール)互いに分岐し、いたるところで対立しあっているのに、経済学そのものの不条理な定言命題に対する異論はどこにも見られず、ブルジョワ的な経済のカテゴリーが廃棄されることもない。それは実践的には、「先進」社会のなかに現時点で集中され浪費されている諸権力を基礎とした、状況の(ポスト経済学的な)自由な構築のために、したがってまた生全体の利益のためになされるべきことなのである。過去(その記憶が失われるほど完全に放棄されるのが相応しい過去)の名におけるこうした未来の植民地化は、根源的に異なる可能性を徹底的に切り縮めることを前提にしており、その結果、事態は「悪い方向で」進行し続けているように見える。しかし、この可能性は今日の抑圧的社会のあらゆる表現のなかに現前しているのであり、この事態の進行は強いられた結果なのである
 この貧しい手品は、はじめから素性の知れたものである。それはイデオロギー、すなわち、現実の世界、〈実践〉の転倒し、毀損された反映なのだ。しかし、それは活動的なイデオロギーであって、これは実践されることによって現実的なものの中に入り込み、その結果、現実的なものの方こそが逆転した、歪曲されたものと見えるようになる。それはもはや哲学者や他のイデオローグの頭の中だけのことではなく、現実のことなのだ。まさにこれぞ逆さまの世界である。生とその表象とのあいだの隔たりを縮めるために、みすがらの前提に背いた表象の方に与するこの現代的な手法は、現代世界の一般化した革命的危機が提起する真の諸問題に対する偽の解決であり、茶番的な解決、スペクタクル的な解決にほかならない。この「見せかけ」の解決は、それをまだ許している大多数の人々の幻想が崩れると同時に崩れ落ちるだろう。
 〈権力〉はわれわれの生の不能を糧として生きており、無際限に増殖していく分裂や分離を維持しながら、ほとんどその中でだけ許される出会いを計画的に組織している。個人的かつ社会的な時−空間としての日常生活を、われわれ自身と世界とを分解不可能なものとして再構築する今日的な可能性から巧みに分離するやり方、そこに今なお〈権力〉の名人技がある。それは、時間と空間とを別々に、しかも同時に管理し、最終的には時間と空間の両者を、互いが互いを切り縮めるようにすることを目的としている。進歩した労働の形態の中に目に見えて示されている真摯さとは、それをめぐって悪意と滑稽とが競い合っている試みの真摯さである。めざされているのは、完全に「統合された」、「同質的な」空間の形成であり、それは「相同的」で位階的に構造化された機能的なブロックの集成によって作られる(かの有名な「産業社会に共通した一定規模の地域を連結して組織する位階化された都市網」)。その目的は、こうして作られた集合体の中で、分業や分離から生まれたさまざま分裂や隔離や対立がコンクリートに塗り込められてしまうことである。それは、マルクス以来の古典的な階級の対立、都市と地方の対立、社会と国家の対立であり、また地域間のさまざまな「不均等」をこれに付け加える必要がある。今日の先進国と低開発国の対立は、こうした地域間の「不均等」が病理的なまでに拡大したものにすぎない。しかしながら、まさに「歴史の狡知」と言うべきであるが、こうした警察的な整備の見かけ上の最初の成功、すなわち階級闘争(旧来の意味での)や都市と地方の敵対関係の緩和のかげで、都市の爆発から生まれた雑種的でスペクタクル的な「都会」環境という画一化された地平のなかで「生きる」ことを運命づけられた人口の圧倒的多数が根源的かつ絶望的な状態でプロレタリア化しているという現実は、ますます覆い隠しようのない現実となって現れてきている。これによって強化された国家−社会の敵対関係は多くの社会学者に不安を呼び起こしている(「権力と住民のあいだに新たなコミュニケーションの回路を打ち立てることが必要である」、ションバール・ド・ローヴェ*1、『ル・モンド』紙、65年7月13日付)が、それに加えて、ここに暴露されているのは、現在進行中の物象化の「合理化」プロセスの文字どおり「反理性的な」な性格であり、それはこのプロセスにあらゆる種類の障害をもたらしている。これらの障害は、官僚主義的で疎外された観点から見れば完全に「不合理な」ものであるが、あらゆる生きた現実、あらゆる〈実践〉に内在する弁証法的理性の観点から見れば完全に根拠のあるものである。近代国家の体制にヘーゲルがしっかり見てとっていたように──もっともヘーゲルはそれを喜んでいるのであるが──、国家は全体の結合〔=一貫性〕を維持しながらも、個人の疑似的自由の発展を放任するのであり、この敵対関係から無限の力を引き出している。しかし、このカは、ひとたび所与の秩序に根本的に敵対する新しい結合〔=一貫性〕が打ち立てられ、それが力を持ってくるや、国家にとってのアキレス腱となる。そればかりではない。およそ首尾一貫し「成功した」整備というものは一般化された都市計画として地球全体を覆うものでなければならず、この一般化された都市計画は、求められている不可能な均衡の潜在的な撹乱要素としての低開発という現象の縮小をもたらすはずである。しかし資本主義は、あたかも不注意によるかのごとく、致命的なまでの自己自身への忠誠から、声高に叫ばれている低開発そのものと闘うのではなく、低開発諸国との戦争状態に入っている。というのも資本主義は、同様に死活的価値を持った相矛盾する2つの要求の罠にはまって、そのために、生き延びにかける己の野望、すなわちテクノクラートサイバネティックス的なすべての「プログラム化」を破産させてしまうのだ。こうした弁証法が、今日の前歴史的世界の指導者たちの微睡みを必ずや打ち破るだろう。彼らは、われわれをコンクリートの被いの中に葬ることで、もはや誰にも侵されることのない場所を占めることを夢見ているが、このコンクリートの披いが、ついには彼ら自身の墓場となるのである。
 こうした観点から見るならば整備は、また古い意味でのコミュニケーション、すなわち限定されてはいるが現実的なコミュニケーションの断末魔としても理解されなければならない。いたるところでこのコミュニケーションの残滓が〈権力〉によって追い詰められ、情報に取って代わられようとしている。いたるところでこのコミュニケーションの残滓が〈権力〉によって追い詰められ、情報に取って代わられようとしている。いますでに「世界的通信網」は、さまざまな事物のあいだの距離を根本的に取り払う一方で、人々のあいだの距離を無際限に増大させている。こうした通信網の中で、流通はいずれ中和され、人々の流通を少なくし、情報の流通を多くするのが、これに対する未来の解答となろう。人々は家から出ずに、さまざまな情報の音声−映像(オーディオ・ヴィジュエル)の単なる「受信者」となるだろう。これはつまり、今日の、すなわちブルジョワ的な経済のカテゴリーを実際上永続化する試みであり、現在の疎外された社会が間断なく自動的に運動しつづける条件──「より稼働性のすぐれた機械」(『ル・モンド』紙、64年4月四日付)──を創出する試みにほかならない。経済学者たちの言う「完全市場」は不可能であるが、それはとりわけ距離が存在するためである。完全に合理的な経済が存在するとすれば、それはただ1地点に集中したものでなければならないだろう(即時の〈生産〉と〈消費〉)。市場が完全でないのは、世界そのものの不完全性に由来することである。それゆえに、整備者たちは世界を完全なものにしようと努めるのである。国土の整備は、新(ネオ)−封建的な空間を追求する形而上学的な企てなのだ。計画者たちの「偉大なる作品」〔錬金術で非金を金に変えること〕は、驚きのない空間を形成することにある。そこでは地図がすべてであり、国土は無に等しい。なぜなら、国土は完全に隠されて、もはや何ひとつ重大な結果をもたらすことないもからだ。そして、すでに何世紀も前から「Aは非Aになる」ということが立証されていることなど素知らぬ顔で、「Aは非Aではない」というアリストテレス的な専制から人々を解放すると称する愚鈍な意味論者たちの「設計(アーキテクチャー)」を後になってすべて正当化することになるのである。
 こうした真実は、今日、人々が「消費」するのは、もはや画一化されつつある空間ではなく時間であるということによって確かめられる。舞台装置(デコール)の変化を、再構成された、すなわち珍奇な見せ物(ガジェット)のひとつになった地方色として表面的にしか見ようとせず、ヒルトン・ホテルからヒルトン・ホテルヘと移勤しながら世界旅行をするアメリカ人の姿は、大多数の人々の今後の道程をはっきりと予示している。「エリート」だけに許された「冒険」、地球全休にスペクタクル的な反響を与える「冒険」としての空間の征服が、これに対する組織された予見可能な代償となるだろう。しかし、空間の植民地化という遠回しの手段によって〈権力〉の考えていることは、「未来に手形を振り出すこと」であり、「長期期限」を懸念すること、つまり時間を懸念することなのである。時間は、その内容(〈歴史〉を通じてのわれわれの実現)を抜き取った上で、予見できない「未来」、すなわち〈権力〉の機械によってプログラム化されていない「未来」をすべて抜き取った完全に無害なものとして切り売りすべきもの、ということになる。めざされているのは、直線的な時間を「再生=循環(リサイクル)」させるべき巨大な仕掛けを作りあげ、余分のない「切り縮められた」時間ばかりにしてしまうことである。それは、日常の疑似循環的な時間を一般化された新−循環的時間の中に取り込む機械的な時間、歴史を持たない、組み合わせ的な機械の時間であり、現在の事物の秩序が永続することを受動的に受け入れ、強制的に忍従させられる時間である。
 だが、「社会の中の疎外と抑圧は、そのいかなる形態によっても調整をつけることは不可能であり、この社会そのものと共にひとまとめに投げ捨てられるしかない」 (『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌、第4号 36ページ)〔本書第2巻、103ページ〕と、このように言わねばならない。個人的かつ社会的な時−空間の自由な構築の中で空間と時間を再統合するのは、来るべき革命の任務である。「整備者」たちの敗走、それは日常生活の決定的な変化と軌を一にするだろう。彼らの敗走そのものが、日常生活の変化なのである。

テオ・フレー*2

*1:ポール・アンリ・ションバール・ド・ローヴェ(1913−98年) フランスの都市社会学者。フランスの人類学者マルセル・モースの弟子として戦前カメルーンに調査に行き、航空写真を人類学に応用した。戦後は、国立科学研究所(CRNS)などで都市社会学を研究し、その第一人者となった。著書に『労働者家庭の日常生活』(1956年)、『文化と権力』(1975年)など。

*2:テオ・フレー フランスのシチュアシオニストストラスブールで活動したが、「ストラスブールのスキャンダル」以降、ジャン・ガルノーらと分派活動を行ったため1967年1月に除名。