サンセット大通り

訳者改題

 「煮え切らない態度でいてはいけません。アラン・レネ*1という名の模範的な映画作家(シネアスト)の最新映画を見るべきです。そうすれば、この秋の夜長の会話にも話題が尽きて困ることはなく、深い物思いに耽ることができるでしょう」──プルーストカフカジョイスが『エル』誌*2のこの一節を読んでいたら、たいそう満足したことだろう。なぜなら、彼ら3人がそこで一役買っているからである。ほかならぬ映画の作者たちが映画館の入口で無料配布されたパンフレットのなかでそう断言している。「他の芸術領域──たとえば、プルーストジョイスカフカ、フォークナー、その他多くの作家たちの小説──において観察されてきたことにならって、ここでは、映画もまた、時代遅れになってしまった伝統的な語りの手法から解放されようとしているそ」。そして、『パリ・プレス』誌*3専属の映画愛好家(シネフィル)ミシェル・オブリヤンはきっとこのパンフレットを読んだにちがいなく、自らすすんでこう明言している。「多くの観客が協力を拒むかもしれない……彼らは、〔レネを〕大嫌いな者たちの仲間入りをするかもしれない。ジョイスやフォークナーにも批判者はいたのだ」。
 よくお分かりだろうが、もしロブ=グリエ*4を好きでないなら、あなたはジョイスもその他の作家たちももはや読むに値せず、逆に、あなたがこれらの作者を高く評価するなら(あるいは、それは趣味がよいという話を耳にしたことがあるなら)、きっとあなたは『マリエンバート』*5を好きになるにちがいない。こうしたテロリズム的宣伝があらゆる傾向の新聞、映画館の窓口のまわりの掲示板、それにもちろん、たいした資格もない馬鹿者たちのこだまによってばらまかれてきたのである。
 事実、『マリエンバート』は様々に批評されてきたが、どんな批評もみな十把一絡げにしてよいわけではない(この問題は現代芸術に関するいかなる議論にも見いだされる)。たしかに、反対する者もいる。彼らは〔この映画の〕手前にいるのである。だが、『マリエンバート』という特殊なケースでは、そのような反対者はそう多くはなかった。むしろ、強圧的なあの宣伝全体のせいで、彼らはあえて反対意見を表明しようとはほとんどしなかったのである。だが、それができる者もいる。彼らは自分たちがその向こう側にいることを知っているのである(ジョイスは死後に代父の役を背負いこまされた*6が、彼らはジョイス自身にその責任があるとはみなしてはいない)。
 自らがこの種の映画と同時代の人間でありそれと関係があることを決して望まぬなら、できることは過去か来来のどちらかを支持することだ。政治的進歩主義の語彙を踏襲して言えば、この種の映画について「右翼」批評か「左翼」批評のどちらかを行うことである。もちろん、この欄の批評は「左翼」批評である。したがって、この映画を愛したり、恐れずに採用できる大人しい前衛をそこに認めた気になったり、「金獅子」像を与えたりした者たちは、きっぱりと捨ててやることにする。われわれには『マリエンバート』のなかに退行と欺瞞しか見出せない。しかもこのことは、レネの前作『ヒロシマ、わが愛』〔邦題『24時間の情事』〕をじかに参照してみて言えることである。
 シチュアシオニストが現代芸術の真偽の裁き手であるのは、実際の参加者として彼らが現代芸術を知りつくしているからだシチュアシオニストは現代芸術はどうなるべきかを知っており、現代芸術をその未来によって、その後を継ぐより完成されたより複雑な──形式によって判断しているからである。高慢になった者も多い。彼らは、ここ数年来、ピカソの絵を前にしてもはや「自分の妹は6歳だが、これぐらいの桧は描ける」と言うだけだ。だが、そのために彼らは敬意を表すに際しても、軽率な混同をしでかしてしまうのだ。現代的たらんとする作品にどのような意義があるのかを充分に識別できるのは、本物の前衛だけである。
 映画作家が草案の段階で美しい映像を作るのを拒否することは、容易に想像できる。たとえば、彼がその映像を当たり障りのないものにしようとするのも理解できるだろう。だが、今の場合はそうてはない。『マリエンバート』の映像は美しいものであるように望まれ、セットも突飛なものてあるように望まれていたのだ。しかしながら、形式としての映像について確認できるのは虚無と、それからもちろん、自惚れだけなのである。凝固したように静止したままの身振り、衣装、まがい物の神秘、コクトー*7の亜流振りを見るがいい。それは明らかに無声映画への回帰であり、1925年の審美主義である。そこに欠けているのは雪の玉だけである。誠実なドキュメンタリー映画作家レネを彷彿とさせるような断片もたしかにいくつか残っており、不幸な城が移動撮影で眺め回されている。しかし、それが何だというのか。ピストルを発砲する場面で凝固したように静止したままのところや、セーリグ嬢*8のかぶったヴェールが風になびく場面が露出過剰や露出不足でスクリーンに映しだされるのだが、それらはまるで、とりわけこれだけはしてはならないと、ユーモアたっぷりの講義をうけているようなものだ。そのうえ、この同じ虚無が、サウンドトラックの特徴──愚かさと無意味と醜さ──にもなっている。レネは、『モデラート・カンタービレ*9を作った外国の模倣者だちよりもさらに複雑に自らの『ヒロシマ』での実験〔=経験〕を模倣する。そのあげくに、ヒロシマに立ち寄ったフランス人女性にフランス語で話しかける日本人の声を、サウンドトラックで巧みに用いたのを剽窃するため、レネはそこにイタリア語なまりを付けてしまっているほどだ。これだけでも、すでに突飛さは滅少し、むしろ滑稽味を醸し出してさえいる。しかし、内的独白が突然現れ、その後ほとんどの時間、それが続くことを考えれば、滑稽味は昇華されている。それゆえここに、イタリア語なまりでものを考える世界初の人間が出現したわけである!
 映画の宣伝はこう言っていた。「これらの映像に意味を与えたいとお望みなら、1つは見つかるでしょう」。いいだろう。それにこの際よい機会なので、これらの映像についてのコメントにも意味を与えてやろう。反対するのは、アプリオリに私だとはかぎらない。不幸にも、観客がそこに見出せるさまざまな意味も、かなり物悲しい陳腐な内容に要約される。というのも結局、それらが言わんとすることは、明らかに次のようなことだからである。
──愛は盲目。
──1つの鐘しか聞かぬ者は1つの音しか聞かない*10
──生と死は2つの神秘。
──泉よと、言ってはならない*11
──女はよく気が変わる。  
──自然の中にはどんな好みもある。
──その他いろいろ〔=私は何を知っているだろうか]。
 『去年マリエンバートで』は多くの意味を付与することのできる映画だが、そこには興味深い意味は1つもない。この映画の内容──内容という語を使えるとしての話だが──は、無意味で無時問的であり、指人形芝居の上演よりもずっと、歴史や現実や生計から切り離されている。これは『ヒロシマ』の場合と正反対で、『ヒロシマ』は、正確には革命的とは言えないまでも、人々の現在の行動に対してかなり共感的な立揚をとっていた。映画の作者たちは「愛についての省察」に耽ったことを自慢にしている。だが、彼らの反省はその表現手段と同じように空虚なため、それは失語症についての省察になってしまっている。だからこそ、君たちの映画は無言〔=無声〕なのだ! ぞのことはマルセル・レルビエ*12と『アール』誌*13の一読者がまさしく指摘したとおりだ。マルセル・レルビエは、明らかに賞賛の意図をもって書いている。「これは異例の映画にとっての印象的な勝利であって、無声映画時代の印象主義が超越されて蘇っている」。『アール』誌の読者の方も、匿名だが、マルセル・レルビエに劣らず熱狂的な賛辞を送っている。「ヌーヴェル・ヴァーグの代表者の多くが自分たちの先駆者に対して嘲りと同情しか抱いていないのに、1人の若い映画監督が、われわれの時代のための芸術を手探りで創造してきた人たちから、どのような恩恵をこうむり、何を受け継いでゆくことができるかを、ちゃんと認めて感謝しているのを目にするのは、励みになる(「『マリエンバート』あるいは無声映画への感謝」)。実際、この映画は、冷静に判断しても、また原則上からも、何も言うべきことのない映画である。『マリエンバート』は、芸術の疑似コミュニケーンョンに対する批判──あらゆる本物の現代芸術家が行う批判のなかにある肯定的なもの(われわれが常に指摘してきたこと)の対蹠地にある。この映画にはコミュニケーションなどないのに、作者たちは激しいコミュニケーションとやらを再現しているのだと愚かにも信じ、平気でそのことを強調しているのである。例の、王様は自分が裸であるのを知らない、というやつで、仰々しい無を高慢にも見せびらかしているのだ。王様の真似も警察の流儀でなされる。「われわれの映画はいったい何故こんなにも美しいのかを独力で考えて、自分が知的で事情に精通していることを、自ら証明せよ!」と、こう言って人々は恐怖に陥れられるのである。
 しかしながら、社会学的には注目すべき点がある。映画の宣伝の文句が、観客の数と同じだけ意味があると漏らしていたことである。SIが使い價れている語彙を用いれば、これは専門家のデマゴーグ的な任務放棄と言い表せる。彼ら専門家は、もはや自分自身の仕事をコントロールすることもできず、どのような宗派的──党派的──約束事から自分たちの閉ざされた言説を理解すべきかも、もはや思い出せないのである。誰もが好きなことを考えて良いではないか、というわけだ。そして、みんながこの映画を見て満足するのはまるで当然であるかのように仕向けるのである。このような卑屈さ──おまけに間違って理解されている──は、あの精神のプジャード主義*14というものに行きつく。それに、ロブ=グリエが、自分で引き合いに出す重要で難解な諸々の作品(カフカジョイス、フォークナー、以下続く。前の箇所を参照)をまさにこのような展望の下で常に読んできたということも大いにありうる。それらを読みながら、これらすべての作品には意味はないが、自分は意地が悪いので、自分には理解できなかったものにひとつ意味を与えてやったと、彼は、考えたかもしれない。選択は彼に任されていたのだ。
 以来、ミシェル・ビュトール*15は、幕間に観客に投票させて、いくつかの可能な結末部から選ばせる仕組みのオペラの計画を持ちだしてきた。それは、現代芸術の真の必要と展望にとって、造形分野で、ティンゲリー*16の機械やそれと同種の日曜大工作家のモビール絵画(これらの作品によって、彼らは美学的環境の古い諸条件を「乗り越える」のだと自慢している)が果たしている役割と同じ役割を果たしている。2回めの上演のときに、ミシェル・ビュトールが初演の際に見つかった結末部を上演させることで満足し、どんな出だしが相応しいかを当日の観客に想像してもらうようにすれば、段階をもう1つ乗り越えられるだろう(もちろん、私はそのように想像する)。
 『マリエンバート』──見ての通り、誰もがこの映画について自分なりに最も重要な真理を引きださねばならないわけだから、この映画の野望たるや、取るにたらないどころではなかった──の方はと言えば、それは実に空虚な映画だが、空虚と言っても、それはこの映画に内容を詰めこむことができるという意味ではない。このように〔作者に〕才能も想像力も欠けてているのは、それに呼応して、観客の側にも、めったにないほど興味や楽しみが欠けているからである。このような虚無は、ただ批評にとってのみ重みを持ったのであり、批評はそこに再び自分の場所を見出した〔=儲けた〕のである。
 『マリエンバート』の作者たちはバロック様式というレッテルを追求した。そう望んだからバロック的になれるというわけではない。とりわけ、ロココ様式の刳形の映像に、あれほど貧相で曖昧な言葉(これと逆に、シュルレアリスムの詩や、ダダイスムの詩でさえもが全休として持っている豊かさ、ジョイスの豊かさなどを参照せよ)をかぶせることでバロック的になるわけではないのだ! しかしながら、映画自体には偉大なバロックの伝統が存在する。スターンバーグ*17やウェルズ*18のような映画監督がそのことをすでに示している。彼らは廊下を通る術くらいは知っていた。ところで、惨めな羽毛の衣装を身にまとったデルフィーヌ・セーリグを見ても、多くの鳥女(ルイーズ・ブルックス*19や『上海ジェスチュアー』*20に出てくる鳥籠の中のはし端役の女性たち)さえ思い出せない! バロック映画を作るうえで、既成の、保証済みのバロック様式を映画化することに甘んじるのは、映画作りの手法としてはお粗末だった。さもなければ、ポルトガル建築*21についてのどれほど平板な注釈でも、『アーカディン氏』*22よりバロック的ということになるだろう。バイエルンルートヴィヒ2世*23がココ・シャネルと同じ資格で映画の宣伝の肋っ人に呼ばれているのは、単に彼の居城の点からだけでなく、彼の素行の点から言っても、バロック主義の好例である。ただし、ロブ=グリエがルートヴィヒの素行に1つの意味も見出せなかったのは確かである! 彼はデュヴィヴィエ*24のような下らぬ輩の『わが青春のマリアンヌ』*25に錯乱的な次元を与えられなかったが、それと同じように、『マリエンバート』のために律儀にも現地取材をした人たちの労に報いることもできなかった。このような素材を利用するためには、おそらくすでに自身がある種の開かれた理解力に達していなければならない。ウエルズが『アーカディン氏』の舞踏台でどのようにゴヤの版画を仮面に複製して利用していたかが思い出される。言わば、素材と同じレヴェルで仕事をしなければならないのだ。ところで、われわれの見るところでは、非常に意昧深長な細部を指摘できるる。それは、あの間抜けのロブ=グリエがあるゲーム(ひょっとして、これは卓抜な演目になっていたかもしれない)を発明しようと思い立ち、中学生並みの哀れな抜け目なさで自分では成功したと思いこんでいるところである。。彼が見出すことのできたものはすべて、サロンですでによく知られているちゃちなトリックなのだ。しかも、それが映画の中では間違って演じられている。
 自惚れに満ちた過ちがこんなにも混入しているからには、レネのケースを再検討せざるをえない。したがって、(われわれはそのことを『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第3号の論説で書くこともできたと思うが) レネが、映画愛好家(シネフィル)の教養しかない他の「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映画監督だちとは逆に現代芸術に精通しているというのは事実ではない。
 「映画は、現代芸術の力によって豊かになるやいなや、現代芸術全休を覆う危機に合流する」と、シチュアシオニストたちは『ヒロシマ』について書いていた。レネも野望は持っていたが、今や、彼がTNP〔国立民衆劇場〕と『レ・タン・モデルヌ』の間で、またマチュー*26の芸術とアクセロス*27の思想の間で、モダニスムのトリックという環境以外には何ひとつ精通していなかったということに誰もが気づかねばならない。彼は、『ヒロシマ』をめぐる議論の際にアンドレ・ブルトンを参照したにもかかわらず、ロブ=グリエに一任することによって分の力量のほどを正確に示したのである。
 マルグリット・デュラス*28から、新たな発見があるとは言えないが、まずまずの出来の台本を提供されて(そのデュラスにしても、『モデラート〔・カンタービレ〕』の企画に参加したとき、自らの不十分さ、とりわけ、批評感覚の欠如をはっきりと示した)、レネは自分か追い求めていたものの方向で何かをつくる機会にすでに恵まれていた。それが、言葉に支配された映画であった。
 レネは、その短編映画から『ヒロシマ』にいたるまで、言わば、他のさまざまな文化領域に比べて映画が際立っておそろしく立ち遅れていたことに恩恵をこうむって、時間の流れをゆっくりと遡っていた。『ヒロシマ』は映画史の上では異論の余地なく現代の段階に属するものであったが、文化一般の進化に比べるとプルーストのあたりに位置していた。この動きを続けて、レネは最新の映画〔『マリエンバート』〕によって同時代の映画を作らざるをえないと思っていたのである。しかし、ロブ=グリエに言葉を任せることによって、彼は欺かれた。レネは死んでしまった。彼は自らの文化的虚無を告白している。もう何もわかっていない。
 ロブ=グリエの言語について述べる必要があるなら、その実験はいっそうお里が知れている、と言っておこう。ランドン・アヴァンギャルド出版社の本を読んで高貴にして尊敬すべき退屈に閉じこめられながら、それでもなお彼の散文には「神秘的」なところがあるのではないかと思っていた者たちは、その散文が映画化されると、信じられないほどの空虚さを露呈するのを目の当たりにしたのである。〈眼差し〉派*29活版印刷の上でしかその見せ物じみた職務を果たせないのだ。
 ロブ=グリエの文章は、映画に関するレネの構想(言葉(パロール)に支配された映画に関する構想で、『ヒロシマ』ではまったく適切に使われていた)からして、『マリエンバート』の中心要素とならざるをえなかった。だからこそ、もう何もないのである。とは言え、計画は何と魅力的だったことか。〔ロブ=グリエの〕眼差しのエクリチュールが〔レネの〕言語(ランガージュ)の映画と出会う、あるいは、ほとんど出会うというのだから。
それは反・物質を産み出す。ロブ=グリエは、小説を破壊するには余りに遅きに失したが、それでもレネを破壊することにはなった。フランス語でものを書いてきた、あるいは、これから書きそうなすべての個人のうちで、ロブ=グリエがこのような企画にとっては最悪の人間であることにどうして気づかなかったのだろうか。これは、レネがヌーヴォー・ロマンという陰気で間技けなこけおどしを尊敬していたことの証拠である。そのために彼は芸術家として有罪を宣告されているのである。
 『マリエンバート』に、今それよりも好ましい他の映画を対置しようとして、「映画批評」の精神からこれらの批判をしたのではない。そうではなく、これは、ある時までは興味深かった事態の推移が、道をまちがえて時期尚早にも終わりを迎えてしまったことを、悲しみつつ確認したまでのことである。双六になぞらえて言えば、もしロブ=グリエがこの遊びを発明していたのだったら、レネは井戸に落ちていたところだ。
 この〔レネの映画の〕失敗によって、偽のシネマ・ヴェリテ*30の体系的な欺瞞(『ある夏のクロニクル』*31の価値が上がるわけではない。客観的なアンケートだと自惚れている全く馬鹿らしい『ある夏のクロニクル』の価値が上がるわけではないのだ。客観的なアンケートであるどころか、実際は、人物、行われた質問、フレーミング調節、最終的なモンタージュ率の低さ、そしてそのモンタージュに意味を与える順序に関して、すでに選別が行われていたのである。このようなシネマ・ヴェリテは、ただ一つのことに関して残酷な真実をもたらすだけだ。彼らが意識していないがゆえに、メーキャップを施してごまかそうと思いもしなかったその真実とは、調査をしている社会学者の男友達や女友達のばかばかしい言葉遣いやばかばかしい生活である。
 われわれの社会やわれわれの時代がかかえでいる問題系の全休を何ひとつ理解しない人々からは、問題についての、ことのほか明晰な意識を引き出せると期待することは、映画でも他の方法でも不可能である。彼らに知性があれば、それぐらい解るだろう。われわれも、その痕跡が見えたはずだ。
 最近の映画界で、常連の専門家や実業家に部分的に取って代わるようになった知識人たちに可能な独創性とは、最大限見積もっても、彼らの格別の愚かさという独創性もどきのものでしかない(ヒッチコックの愚かさが映画の正規の職人たちによく見かける愚かさであるのと回しように)。私の念頭にあるのは、H=F・レイ*32の小説に基づいて彼の協力で製作された『スペインの祭』である。この映画には、どこか突飛なところ(食事のときにアメリカ人ジャーナリストらと交わすオデオロギーに満ちた会話)があって、それはフランスで左翼知識人と呼ばれているものの生活様式をかなり典型的に示すものてある。この映画──プロダクションの商売人たちによって作られている風には見えない──には左翼知識人の誠実さが見出される。しかし、この誠実さの限界はとこにあるのか。欺瞞と無知という、同じように左翼知識人に典型的なものが始まるやいなや、そうした限界が現れる。彼らはスペイン革命について全く無知である(わが物顔にふるまい、酒浸りでうすのろでサディストの数名のアナキストや、共産主義者たちに反撃する段になるとたちまちボーイ・スカウトごっこをするように思える1人のトロツキストを除いては、共和派陣営での生死をかけた闘争はまったく示されていない)。偽りの愛についての偽りのシニスム。この愛は、放棄(デゼルテ)すべき戦争には事欠かないにもかかわらず、こうした戦争において逃亡(デゼルテ)をそそのかす愛である。そのうえ、その愛が卑しい生活に打ち克つのか、それともブルジョワ化するのかを見届けられるメロドラマの常套手段さえ欠いているのである。というのも、映画の出だしからして既にこの愛はブルジョワ化されたものになっていたからである。
 したがって、日常生活の現実やスペイン戦争と同じくらい重要な問題について語るのだと言い張る人々も、ロブ=レネ〔ロブ=グリエアラン・レネのこと〕とどっこいどっこいである。ロブ=レネは彼らよりもずっと退屈だが、何の話もしないだけの力は持ちあわせている。
 しかし、われわれ──ここ数年、文化をめぐって続いている公式の議論において、態度決定を有利に運ぼうとする習慣などわれわれにはまったくないが──は本誌で、レネの最初の映画は明らかにスペクタクルの破壊についてのシチュアシオニストの諸テーゼの外で構想されたにもかかわらず、そのテーゼを補強してくれると言っておいた(「現代におけるスペクタクルの根本的な特徴は、スペクタクル自身の廃墟を演出することにある」、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第3号)。レネがスペクタクルのなかでも最も大袈裟で最も虫の食ったものに再び陥ったからには、次のように結論せざるをえない。すなわち、以降の展開でレネに矢けていたのは、まさしくそうしたテーゼであるということ、そして、われわれ以外に、現代の芸術家は考えられないということである。

ミシェル・ベルンシュタイン*33

*1:アラン・レネ(1922−) フランスの映画監督。『ヴァン・コッホ』(48年)、『ゲルニカ』(50年)の短編ドキュメンタリーで映画監督としてのスタートを切り、アウシュヴィッツを扱った『夜と霧』(56年)で衝撃を与える。その後、カットバックやオフの声を多用した実験的な作品『ヒロシマ、わが愛』(邦題『24時間の情事』、脚本マルグリット・デュラス、59年)でカンヌ映画祭国際批評家賞を取り、大きな反響を得る。ヌーヴォー・ロマンの作家ロブ=グリエの脚本を映画化した『去年マリエンバートで』(61年)は、ベルリン映画祭で金獅子賞を獲得し反響を呼んたが、現在と過去、現実と幻想を錯綜させるその手法はレネ独自のものと言うよりもロブ=グリエのアイディアに負うところが大きかった。レヘヘごつん。その後の作品『ミュリエル』(63年)、『戦争は終わった』(66年)、『ヴェトナムから遠く離れて』(66年、ゴダール、ヴァルダ、クリス・マイケルらとの共作)などによってレネはヌーヴェル・ヴァーグの監督として分類されることが多い。

*2:『エル』誌 フランスの女性誌。1945年、フランソワーズ・ジルーが創刊し、編集長を務めた。

*3:『パリ・プレス』誌 フランスの日刊祇。1944年に創刊され、70年に廃刊。

*4:ロブ=グリエ(1922ー) フランスの小説家。『消しゴム』(1953年)、『覗く人』(55年)などの小説によってヌーヴォー・ロマンの騎手とされる。アラン・レネ監督の映画『去年マリエンバートてで』(61年)の脚本、自らが監督した映画『不滅の女』(63年)によって、映画にも手を染めたが、これらはシチュアシオニストからこっぴどく批判されている。

*5:『マリエンバート』 レネ監督、ロブ=グリエ脚本の映画『去年マリエンバートで』(61年、94分) のこと。出演はデルフィーヌ・セーリグ、ジョルジュ・アルヴェルタツィ。

*6:ジョイスは死後に代父の役を背使いこまされた 『去年マリエンバートで』の宣伝にジョイスが勝手に利用されたことを指す。

*7:ジャン・コクトー(1889‐1963年) フランスの詩人・小説家・映画監督。シュルレアリスムから古典派までの多様な作風で多くの詩集(『ポエジー』〈20年〉など)、小説(『ポトマック』〈29年〉、『大股びらき』 〈23年〉 など)を発表し、音楽、ダンス、映画も手がけた。映画作品としてはギリシャ神話を背景としたアヴァンギャルド映画『詩人の血』(30年)、『美女と野獣』(46年)、『オルフェ』(50年)、『オルフェの遺言』(60年)などがある。いずれも、フィルムの逆回しなどのトリック撮影を用いて幻想と現実の交錯を描いた作品である。レトリストだちとも親交があり、イズーのレトリスム映画『涎と永遠のための概論』をカンヌ映画祭で激賞した。

*8:セーリグ嬢 『去年マリエンバートで』の主演女優デルフィーヌ・セーリグ。

*9:モデラート・カンタービレ イギリス人ピーター・ブルック監督がマルグリット・デュラスの脚本を映画化した1960年のメロドラマ。邦題は『雨のしのび逢い』。主演ジャンヌ・モロー、共演シャン=ポール・ベルモンド、ディディエ・オードパン。

*10:1つの鐘しか聞かぬ者は1つの音しか聞かない。 「一方の意見は聞いて他方の意見は聞かないまま判断するのは不公平である」という意味。

*11:泉よと、言ってはならない。 「泉よ、今後お前の水を私が飲むことはあるまいと、言ってはならない」というフランスの諺の一部。「将来、何々のこと──特に結婚──はしませんとみだりに誓ってはならない」という意味。

*12:マルセル・レルビエ(1888ー1979) フランスの映画監督。第一次大戦後にヒューマニスト的な映画で注目された。1943年にIDHEC(パリ映画高等学院)を創設したことでも知られる。映画作品に『エル・ドラド』(25年)、『ドン・ジュアンファウスト』(25年)などのサイレント映画、『黄色い部屋の秘密』(30年)、『ポンペイ最後の日』(49年)など。

*13:『アール』誌 1945年にパリで創刊された文芸週刊誌。編集長はアンドレ・バリノー。絵画、映画、演劇、文学を扱い、投書欄もある,

*14:プジャード主義 南仏の文房具店主ピェール=プジャード(1920−)が組織したプジャード運動に由来し、プチブル層の生活保守意識に根ざした偏狭で排外主義的な感情的愛国主義意識(ポピュリスム)をさして言う。プジャード運動とは、1953年、プジャードが、税制改革に反対する小売業者を組織してフランス商人職人防衛連合を創設して反税運動を展開し、翌年には、チュニジアを手放したマンデス=フランスから多国籍企業、哲学者・知識人、外国人まで祖国に背く者をすべて攻撃するファシスト的右派政党にまで発展し、56年の総選挙では52議席を獲得するまでに躍進した運動。

*15:ミシェル・ビュトール(1926−) フランスの作家、。厳密な時間構成で書かれた小説『時間割』(56年)でヌーヴォー・ロマンの作家として注目を集め、二人称小説『心変わり』(57年)でルノード賞を獲得、一躍有名作家となる。その後、『階段』(60年)、『モビル』(62年)、『サン・マルコの描写』(63年)、『毎秒810,000リットルの水』(66年)などの実験的な小説を発表する一方で、評論・エッセイなども多く書いている。ここで触れられている「ォペラの計画」とは、1962年に雑誌発表された『あなたのファウスト』のことと思われる。

*16:ジャン・ティンゲリー(1925−91) スイス生まれの彫刻家。廃物彫刻、動く彫刻で知られる、回転レリーフ「メタメカニズム」(54年)や自動デッサン機械「メタマティック」(59年)などを経て、60年、ニューヨーク近代美術館で「ニューヨーク讃歌」という名のイヴェントを行う これは、騒音を発しながら動く廃品彫刻で、最後には自らの動きによって自己解体するものであった。

*17:ジョゼフ・フォン・スターンバーグ(1894−1969年) オーストリア生まれの合衆国の映画監督。ギャングスターと運命の女(ファム・ファタル)という2つの新しいタイプの主人公を産み出したことで知られる。代表作にアル・カポネ時代のシカゴを舞台にしたフィルム・ノワールの先駆的作品『暗黒街』(27年)、マレーネ・ディートリッヒを主人公にした『嘆きの天使』(28年)、『上海特急』(32年)などがある。ドゥボールは映画『スペクタクルの社会』でスタンバーグの 『上海ジェスチャー』を「転用」して用いている。

*18:オーソン・ウェルズ(1915−85年) 合衆国の俳優・映画監督。41年の『市民ケーン』で、映画の物語構造、モンタージュ、背景装置、カメラワークなど多くの点て映画手法に革命的変革を起こしたことで知られる。

*19:ルイーズ・ブルックス(1900−85年) 合衆国の映画女優。カンサス州ウィチタに生まれ、ニューヨークで踊り子をしていたが、25年に映画界に入り、ハワード・ホークスの『港みなとに女あり』(28年)などの作品に出演。これを見たドイツの映画監督G・W・パプストに見出され、1929年にドイツで、ルー・アンドレアス=サロメをモデルにした『ルル』(原題『パンドラの箱』に主演、そのエロティシズム溢れる「宿命の女」の強烈な姿で「ブルックス現象」と呼ばれるまでの世界的な名声を博したが、38年に映画界を引退。『カナリヤ殺人事件』(29年)ではルイーズ・ブルックスはカナリヤの扮装をして現れる。

*20:『上海ジェスチャー ジョゼフ・フォン・スターンバーグ監督の1941年の作品。ジョン・コールトンの同名の劇の映画化。出演ウォルター・ビューストン、ヴィクター・メイチャー。98分。

*21:ポルトガル建築 もともとバロックという語は「いびつな形の真珠」を意味するポルトガル語barrocoから来ている。

*22:『アーカディン氏』 邦題『アーカディン/秘密捜査報告書』。オーソン・ウェルズ監督の1955年の映画。スペインの記憶喪失の大金持ちの過去を調査する任を負ったアーデンは、調査を開始するが、出会った人々が次々と殺されてゆく、というフィルム・ノワール的映画。ドゥボールは映画『スペクタクルの社会』でこの『アーカディン氏』を「転用」している。

*23:ルートヴィヒ2世(1864−86年)若くして父マクシミリアン2世の後を継ぎバイエルン王となった。理想主義にあふれたロマン主義者で、芸術の支援を多く手がけた。特にワーグナーに心酔し、そのオペラに用いられた神話から発想した幻想的な装飾を施した城ノイシュヴァンシュタイン城を建てたことでも知られる。

*24:ジュリアン・デュヴィヴィエ(1896−1967年) フランスの映画監督。トーキーの到来とともに30年代に全盛を極めたフランス映画の巨匠。代表作に、『舞踏会の手帖』、ジャン・ギャバン主演の『望郷』(共に37年)など。

*25:『わが青春のマリアンヌ』 メンデルスゾーン原作、ジュリアン・デュヴィヴィエ脚本・監督、マリアンネ・ホルト、イザベル・ピア、ピエール・バネック出演の1955年の映画作品。ドイツの湖畔の古城を舞台に、美しい乙女マリアンネを愛慕するバンサンの思い出を、ドイツ・ロマン派風の神秘的な幻想のなかで描いた物語。

*26:ジョルジュ・マチュー(1921−) フランスの画家。行家の息子として牛まれ、高校の英語教師、ユナイテッド・ステイッ・ラインの広報担当を勤めた後、1947年以来、〈叙情的抽象(アブストラクシオン・リリック)〉を組織、1950年代前半には、アンフォルメル運動の最も目立った画家として活動。50年代末からは世界各地で展覧会を開く一方で、産業界と行政権力と結び付いた活動(セーヴル陶器、公園・記念碑設計、テレビ放送への協力など)によって「新しいルネッサンス」の旗手とされた。1957年3月、パリのクレベール画廊で、シュルレアリストの画家ハンタイとともにファシスト的教権拡張主義の示威行動を組織するなど、フランス右翼の復活の先頭に立って行動し、またアンフォルメル絵画の公開のアクション・ペインティングに際しては常に黒づくめの服装をしていたことから、「主任司祭」と揶揄されていた。

*27:コスタス・アクセロス(1924−) ギリシャ生まれのフランスの思想家。第二次大戦期に、ドイツ・イタリア軍の占領下のギリシャ共産党に入党、レジスタンスに参加。内戦期には、共産党から除名され、右翼政権に死刑を宣告される。戦後、パリに移住し、ソルボンヌで哲学を学び、62年以来、同大学の哲学講師となる。57年から62年まで、『アルギュマン』誌の編集長をつとめ、60年からはエディシオン・ド・ミニュイ書店の〈アルギュマン〉叢書を創設・主宰。著書に、『ヘラクレイトスと哲学』、『技術の思想家マルクス』(共に61年)『遊星的思考へ』(64年)など。

*28:マルグリット・デュラス(1914−96年) フランスの作家。インドシナに生まれ、そこで過ごした少女時代を、『太平洋の防波堤』(1950年)などの作品に描くことで作家人生をスタート。50年代から60年代にかけてコミュニケーションの不可能を描いた『モデラート・カンタービレ』(88年)などの一連の作品を発表。映画にも関心が深く、『ヒロシマ、わが愛』(59年、アラン・レネ監督)、『かくも長き不在』(61年)などのシナリオを書くほか、『インディア・ソング』(74年)を自ら監督している。

*29:〈眼差し〉派 ヌーヴォー・ロマンの別称。ロブ・グリエの小説『消しゴム』(1953年)や『覗く人』(55年)が緻密な「眼差し」によって事物の細密な描写を延々と行い、物語を無化していることからこう呼ばれた。

*30:シネマ・ヴェリテ 「シネマ・ヴェリテ」は「映画・真実」の意味。1850年代後半にジャン・ルーシュクリス・マルケルなどが試みた新しい記録映画につけられた名称。

*31:『ある夏のクロニクル』 1961年、ジャン・ルーシュエドガール・モランと協力して作った映画。シネマ・ヴェリテの手法を現代の都市社会を対象に用いて、カメラによる1960年夏のパリの街での社会学的アンケートを行った。本書第2巻141−142ページを参照。

*32:アンリ=フランソワ・レイ(1919−87年)フランスの作家。作品に『ピアノ・メカニック」(61年)、『野蛮人』(86年)など。

*33:ミシェル・ベルンシュタイン 1957年SI結成期以来のシチュアシオニスト。SIフランス・セクションで活動し、1976年脱退。