『黄色地帯の描写』 訳者改題

 ここで描写されている「黄色地帯」は、コンスタントが1956年からSI脱退(60年)後の1972年まで16年間にわたって探求し続けた新しい都市「ニュー・バビロン」の構想の1部である。この構想の基本理念は、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌第3号所収の「もう1つの生活のためのもう1つの都市」で明らかにされており、「黄色地帯の描写」はその具体例として建築模型とともに示されたものである。こうした具体的な「作品」は、このhかにも「赤色地帯」、「東洋地帯」など「ニュー・バビロン」の各セクターの建築模型や描写、「アルバのジプシー・キャンプ」(56年)、「空間のサーカス」(56年)、「機械状星雲」(56年、58年)、「小迷宮」(59年)、「スパシオヴォール」(60年)、「移動式はしごのある迷宮」(67年)などがあり、それぞれが「ニュー・バビロン」の部分を構成するものであった。また、これらに関する設計図や、「ニュー・バビロン」をさまざまな角度から描いたクロッキーや水彩、油絵なども数多くある。「ニュー・バビロン」とコンスタントについては、本書第1巻の訳者改題でも簡単に触れたが、ここで今1度、詳しく説明する。
 コブラの時代(1948−51年)のコンスタントは、あらゆる美術の「スタイル」を乗り越え、「自発性」に基づく形態の絵画を描いていたが、ヨルンの影響もあり、次第に「芸術作品」と「芸術家」そのものを否定し、集団的な環境構築としての建築、あるいは都市そのものの構築へと向かっていった。彼は1951年から53年まで、ブリティッシュ・アート・カウンシルの招きでロンドンに滞在するが、その時期にオランダの若い建築家でコブラの展覧会の空間構成を担当したこともあるアルド・ヴァン・アイクとの共同作業の中で発想した「空間的色彩主義(コロリスム・スパシアル)」は、この建築への転向の契機となった。1952年のアムステルダム市立美術館の『人間と居住空間』展での「空間的色彩主義のために」では、「空間的色彩主義」とは「空間の構成に関して色彩が持つ巨大な潜勢力」を開放することであり、色彩を形態の飾りとしてではなく形態と一体のものとして見ることであるとされている。「色彩とは形態の色彩にほかならず、形態とは色彩の形態にほかならない」。そしてさらに、そこで強調されていることは、画家と建築家の共同作業であり、それぞれが自分の分野の専門家として働くのではなく集団的作品のためのチームを形成することなのである。「色彩」と「形態」との統一的把握は「ニュー・バビロン」の各セクターが「黄色地帯」、「赤色地帯」とされることに影響を与え、集団作業の称揚はシチュアシオニストの活動を受け入れる素地になっている。
 コンスタントが実際に建築模型(マケット)を製作し、新しい建築を目に見える形で発表するのは、1956年の「アルバのジプシー・キャンプのための計画」と題した建築模型からである。車輪状の巨大テントを思わせるこの建築模型は、SI結成の前年、イタリア北部のアルバでピノガッリツィオの呼びかけで「第1回自由芸術家国際会議」が開催された時に、街を追われたジプシーたちに避難場所を提供していたピノガッリツィオの求めに応じて作られたが、そこにはすでに、すぐ後にドゥボールの示唆によって「ニュー・バビロン」と名付けられるコンスタントの新しい都市構想の基本的性格であるノマディズム、遊戯的生活、迷宮の創出という3つの原理が読み取れる。【ニュー・バビロン」において、第1に「ニュー・バビロニアン」と呼ばれる住民は固定した住居を持つのではなく、ノマド(流浪生活者)として、恒常的な漂流生活をするものとされる。第2に、そこでの住民の生活スタイルは「労働」と「余暇」という資本主義社会の二元論を乗り越え,「遊戯的行動」を全体化したものとなる。そして第3にそれは、現代都市の中に新たなバビロン、すなわち新たな「迷宮」を創出する試みであり、そのために現代のあらゆる芸術とテクノロジーが転用される。コンスタントはル・コルビジェらの機能主義的な都市を否定するのではなく、それを「乗り越える」のだと書いているが、それは、資本主義に仕える都市の装置を解体して、それらをシチュアシオニスト的な「遊戯」の目的に使用することを意味する。
 これらは、ドゥボールらが「漂流」、「心理地理学」によってレトリストの時代から探求してきた活動と重なり合い、58年9月にコンスタントがSIに提出した「われわれの手段と今後の展望について」やドゥボールとコンスタントの署名による58年11月の「アムステルダム宣言」を経て、「統一的都市計画」の具体的内実としてSIの中心的戦略に組み込まれる。そして、59年4月のミュンヒェンでのSI第3回大会で、コンスタントを中心としたアムステルダム「統一的都市計画研究所」の開設へと上り詰める。しか――性急に――実現するために「技術」を重視するコンスタントと、都市計画は都市計画批判としてしか存在しえず、「技術」のイデオロギー性をも批判せねばならないとするドゥボールらとの間に次第に亀裂が生じ、60年夏、アムステルダムの統一都市計画事務所は閉鎖され、コンスタントはSIを脱退する。60年以降は、SIに参加したばかりのヴァネーゲムコターニィによる新たな統一都市計画事務所がブリュッセルに開設され、2人は「都市計画は存在しない。それはマルクスの言う意味での『イデオロギー』にすぎない」という言葉で始まる「統一都市計画事務所の基本綱領」を発表し、SIは統一的都市計画と日常生活批判との一体性を強調する方向に軌道修正するとともに、コンスタントの「技術者(テクニシアン)の副産物」、「テクノクラート」などの激しい言葉で批判してゆく。
 コンスタントはその後も、さまざまな展覧会で「迷宮」を建設したり、65年から67年のアムステルダムのプロヴォと呼ばれる若者たちの都市叛乱に影響を与えたりしつつ(コンスタントはプロヴォの機関紙に「ニュー・バビロン」の文章をはじめいくつかの文章を発表している)、72年まで「ニュー・バビロン」の都市計画を構想し続けるが、その後、突如それと決別し、絵画に回帰する。サント・ヴィクトヮール山のセザンヌ(コンスタントには素晴らしいセザンヌ論がある)あるいはターナーの海かドラクロワのライオンを思わせる筆致で描かれるそれらの絵画の主題は、「迷宮の入り口」(72年)、「強姦」、「虐殺」、「尋問」、「蜂起」、「裁判」、「最後の晩餐」、「旅人」、「愛する者の死」、「画布の前の画家」、「オルフェ」、「ノスタルジア」、「死刑執行」、「難民」(91年)など、「ニュー・バビロン」を彷彿させる迷宮の内部のさまざまな場面である。あたかも「ニュー・バビロン」を現実の世界が追い越し、世界そのものが「迷宮」と化してしまったかのようである。それらは敗者の夢である。だが、敗者特有の「美」に貫かれている。