『完成した分離』 訳者解題


 ここに掲載されたギー・ドゥボールの「完成された分離」というタイトルの34の断章あるいはテーゼは、最後の付記にあるように「スペクタクルの社会」(拙訳、平凡社、1993年)の第1章を構成するものである。「スペクタクルの社会」という概念そのものの意義については「スペクタクル=商品経済の衰退と崩壊」の「訳者解題」を参照してもらいたいが、ここでは「スペクタクルの社会」という理論的書物について簡単に紹介し、その意義について若干述べておく。
 1967年11月にパリのピュジェ=シャステル書店から出版された「スペクタクルの社会』は全体が221の断章から成り、それらの断章が9つの章に分けて置かれている。すなわち「スペクタクルの社会」の原理的考察である第1章「完成した分離」、「商品の物神化(フェティシズム)の原理」を完遂するものとしての現代の「スペクタクル」を、「量」、「交換価値」、「経済」、人間の「社会生活」の「疎外」、「消費」の幻想、「貨幣」などとの関係から分析する第2章「スペクタクルとしての商品」、人間の社会生活から政治までを支配する「スペクタクル」について考察する第3章「外観における統一性と分割」、マルクスの「プロレタリアート」概念を批判的に分析し、マルクス以降のさまざまなマルクス主義潮流の革命理論と運動を歴史的に総括して現代の「スペクタクルの社会」での新しい「プロレタリアート」概念を提出する第4章「主体と表象としてのプロレタリアート」、人類史を「円環的時間」から「不可逆的時間」 への移行の歴史として読み直し、その果てにこの「不可逆的時間」を統一するものとして「世界的スペクタクルの時間」が出現したことを解き明かす第五章「時間と歴史」、にもかかわらず「スペクタクル」化された消費社会が「商品」の定期的生産と消費を促すために「疑似円環的時間」を再発明し、そのなかで歴史意識の放棄を強いる「時間の虚偽意識」としての「スペクタクルの時間」が支配するようになったことを批判する第6章「スペクタクルの時間」、空間を統一し距離を除去することに基づいた資本主義的生産様式による都市計画に反対し、「空間を生きられた時間に従わせ」る「人間的地理による批判」としての新しい「プロレタリア革命」を提唱する第7章「国土の整備」、ダダイスムからシュルレアリスムまでの20世紀の文化運動と現代の「完全に商品と化した」文化を批判的に総括し、「スペクタクル批判」の理論と実践の結合した新しい文化のあり方を主張する第8章「文化における否定と消費」、自律化した経済生産のなかでイデオロギーが自明の事実と化し、世界化したスペクタクルの中に物質化されて融合された現代の社会において、見かけ上は「イデオロギーの歴史の終焉」を演じて見せている「スペクタクル」の虚偽意識を暴く第9章「物質化されたイデオロギー」である。
 「スペクタクルの社会」の第1章や第2章を読めば、ドゥボールマルクスの思想をいかに今日的に読み替え、マルクスの「商品」の物神化についての分析を「スペクタクル」のイデオロギーの分析の道具に転用して、現代資本主義社会に対する批判の武器として用いているかがわかる。実際、マルクスの「資本論」のちょうど100年後に書かれたドゥボールの「スペクタクルの社会」は、多くの箇所でマルクスを転用している。例えば、冒頭の断章1や断章4の文章が、マルクスの「資本論」の文章の「商品」という語を「スペクタクル」に置き換えただけの「転用」であることは、マルクスを読んだことのある者なら容易にわかるだろう。断章34の文章も、貨幣の蓄積が、ある価値的な閥を越えると、資本に変化するというマルクスの理論を、「貨幣」の代わりに「スペクタクル」と置き換えたものである。ドゥボールマルクスとの関係に照明を当てて「ギー・ドゥボール」という1冊の本を書いたアンセルム・ヤッぺ( Anselm Jappe, Guy Debord, Via Valeriano, 1995 )は、マルクスが「商品形態」のなかに見出した「疎外」の理論を、ドゥボールがいかに鋭く「スペクタクルの社会」の批判に転用して用いたかを説明している。そもそも、ドゥボールらが好んで用いる「分離 séparation 」という語は、ドイツ語の Enfremdung のフランス語訳の1つであり、彼らは「疎外 aliénation というもう1つの訳語より、こちらの方を好んで用いてきた。またドゥボールは「分離の批判」(62年)というタイトルの映画まで作っていることを見ても、ヤッペに言われるまでもなく、ドゥボールマルクスの「疎外」理論を早くから用いていることは明白である。しかし、ヤッペによれば、マルクスの「疎外」理論は、普通言われるように、ヘーゲル左派の哲学者らがしきりに「疎外」論哲学を展開したのを受けて──例えば、ドゥボールが引用しているフォイェルバッハは、人間の具体的な生を転倒して疎外するものとして「宗教」を攻撃する──、青年期の彼が「ドイツ・イデオロギー」や『経済学・哲学草稿』の中で人間の活動の抽象化としての「国家」と「貨幣」について考察した理論であるだけではない。マルクスは「共産党宣言」のなかで「疎外」の理論を否定したが、後年、「資本論」の第1章のなかで「商品形態」を説明する時に再び「疎外」の考えを用いる。すなわち、「商品形態」の「歴史的起源」は、マルクスによれば、モノの「使用価値」から「交換価値」が独立して、モノが「商品」として「抽象化」──すなわち「疎外」──されることにあり、それこそが近代的経済の核心である。ドゥボールの言う「スペクタクル」は、マルクスの言うこの「疎外」の現代的形態であり、その究極の姿である。ドゥボールマルクスが「商品」の原理として見出した「疎外」の構造を現代の社会の本質的構造と見て批判し、「商品」の「価値」はいかなる意味でも「経済」的カテゴリーではなく「1つの全体的な社会的形態」であるとの理解のうえに、「経済」というカテゴリーそのものを破棄することによって「商品」という「スペクタクル」を廃絶しようとする。ドゥボールの新しさは、マルクスの「資本論」中にあった曖昧さ──「経済」批判と「経済」による批判の共存──を払拭して、現状をマルクスの「価値批判」に照らして説明したところにある。マルクスの行った「経済による批判」は、資本主義の発展と共産主義への道程を「経済法則」として解釈するその後のいわゆるマルクス主義の歴史であったが、それはマルクスの時代よりもいっそう露になってきた現代の資本主義のむき出しの原理をまったく説明できないばかりか、この資本主義との有効な闘争の武器にもなりえない。かつて、資本主義がまだ完全に勝利を収めていない60年代までの時代には、前近代的な生産部門の資本主義化の上昇気流に乗って労働運動が「経済法則」を武器にして闘い、大きな「勝利」を収めることもできたが(フォーディズムケインズ経済学の時代だ)、その後、70年代以降になって、資本主義システムの未完成のゆえに「危機」が生じるのではなく、逆にそれが完全に勝利したことによってたえず「危機」が発生している現在、逆説的にも、マルクスが「純粋な原理」として考察した「商品」の「形態」と「価値」の根幹にある「疎外」の原理がむき出しの形で現れてきている。「〔……〕観客が凝視すればするほど、観客の生は貧しくなり、観客の欲求を表す支配的なイメージのなかに観客が己れの姿を認めることを受け入れれば受け入れるほど、観客は自分の実存と自分の欲望がますます理解できなくなる。活動的な人間に対するスペクタクルの外在性は、観客の身振りがもはや彼自身のものではなく、自分に代わってそれを行っている誰か他人のものであるというところに現れてくる。それゆえ、観客はわが家にいながらどこにもいないような感覚を覚える。というのも、スペクタクルはいたるところにあるからである。」(断章30)とか、「労働者は自分自身を生産するのではない。1つの独立した能力を生産するのである。この生産の成功、この生産の大きさは、生産者のもとに、非所有の大きさとして戻ってくる。疎外された彼の生産物が蓄積されるにつれて、彼の世界の時間と空間のすべてが、彼にとっては疎遠なものとなるのだ。スペクタクルは、この新たな世界の地図、この世界の領土を正確に覆う地図である。われわれから逃げ去った力そのものが、そのすべての威力をともなって、われわれの前に示して見せられるのである。」(断章31)とか、「社会のなかのスペクタクルは、疎外が具体的に作り出したものに対応している。経済の拡張とは、主として、その精密な工業生産力の拡張でしかなく、独自に運動する経済とともに成長するものは、まさに元来その中心にあった疎外以外の何ものでもない。」(断章32)などの言葉は、資本主義と商品経済の拡張の果てに、どこにも「外部」が存在しなくなり、スペクタクル的で投機的な(スペキュラティフ)金融とテクノロジーの空しい「発展」が世界を覆い、われわれはモノを生産し、経済活動をすればするほど、われわれ白身の「非所有」を実感させられる今の時代を何よりも的確に表現する言葉である。
 そこにこそドゥボールの先見性があったと、ヤッペも述べているが、これは「スペクタクルの社会」が68年5月革命の前夜に爆発的に読まれ、5月革命を理論的に支える役割を果たしただけでなく、68年以降も古びるどころか、ますます新しい輝きを増し──ドゥボール自身も、88年に「「スペクタクルの社会」に関する注釈」という書物を出版して、20年前の自らの理論の現代的意義を再確認している──、近年になって思想界でもドゥボールヘの注目が高まってきた1つの理由でもあるだろう。エティエンヌ・バリバール( Etienne Baliber, La philosophie de Marx, La Découverte, 1993)、ジャン=リュック・ナンシー( Jean-Luc Nancy, Être singulier pluriel, Galilée, 1996 )、マーチン・ジェイ(Martin Jay, Downcast Eyes, University of California Press, 1994 )、フィリップ・ソレルス(多くのインタビューや記事、小説で)など現代の最も先鋭的な哲学者や作家たちが、90年代に入って軒並みドゥボールを称賛し始めたのには、それぞれ異なる動機があることは確かだが、その底に、ドゥボールの「スペクタクルの社会」という理論が、ますます今日的有効性を発揮してきていることへの共通の認識があることは間違いない。」


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