『中国におけるイデオロギーの発火点』 訳者解題


 1967年10月発行の『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第11号の冒頭を飾るこの論文は、1965年11月に開始された中国の「文化大革命」の本質を官僚主義の世界的分裂の一過程と明確に規定し、現象面で生じている紅衛兵毛沢東派の「永続革命」的行動を「偽の文化の偽の革命」として断罪するものだが、同時にその裏で、そうした行動に無批判に追従し、諸手を上げてこれを讃える西欧の毛沢東主義者を批判することも目的としていると思われる。
 「文化大革命」は、公式には、毛沢東が自らの「過渡期社会」論(1949年の新中国成立以降、将来の共産主義社会にいたるまでの社会主義社会を「過渡期」と位置づけ、そこで階級闘争を拡大し、プロレタリアート独裁を確立することによって「過渡期」から「共産主義社会」への移行を果たす)に基づいて、1965年以降開始した「階級闘争」であり、社会のあらゆる領域で旧習や旧文化を一掃し、「走資派」と「修正主義」の息の根を止めることを目的としたものであるとされていた。しかし、この「階級闘争」の実際の動機は、58年以降毛沢東ソ連「修正主義」への批判から打ち出した独自路線(中国固有の方法で、とりわけ農民階層に依拠した急速な共産主義化)としての「人民公社」化と「大躍進」政策が国の経済を破綻させ、1000万人とも言われる餓死者を出して失敗し、毛沢東自身もその責任をとって59年には国家主席を辞任せざるを得なくなった後、かねてからゆるやかな共産主義化と近代化による国家建設を唱えていた劉少奇らの「走資派」が党の実権を握るに至ったことに対して、毛沢東林彪防相と組み、人民解放軍と大学生・高校生などの大衆を味方につけて実権派批判の一大大衆運動を引き起こし、巻き返しを図ろうとしたものである。その意味で、「文化大革命」とは「階級闘争」の衣を借りた「権力闘争」であったとも言える。1965年から76年まで11年にわたり中国全土を巻き込み、50万人とも言われる死者を出して展開されたこの「文化大革命」の歴史を、今、手元にある日本の中国学者吉田富夫氏の『平凡社大百科事典』の記述、中嶋嶺雄氏の『中国文化大革命』(1968年、弘文堂)などを参考にしてまとめておこう。
 1965年11月、毛沢東はまず、自らが直接指導して姚文元に書かせた論文「新編歴史『海瑞罷官(かいずいひかん)』を評す」によって、劇作家で北京副市長でもある呉羗の61年の史劇『海瑞罷官』が、明代の官吏清宮であったがゆえに罷免された海瑞を讃えることにかこつけて、実は59年に「反党・反社会主義分子」として失脚させられた彭徳懐一派の復権を求める政治的意図を持って書かれたものだとして、呉羗ら主に北京市北京大学の党委員会を拠点とする実権派を批判する闘争を開始した。これが「文化人革命」の発端である。この時の運動は、主として知識人批判であり、階級闘争を忘れ、ブルジョワ歴史学に埋没する「反動的」知識人に対する「整風」運動として展開され、中国文芸界のトップ郭抹若ら著名な知識人が次々と自己批判し、『人民日報』や『紅旗』などの社説が「労農兵大衆」による「学術批判」を鼓舞し、文芸・学術界を「毛沢東思想」で武装したプロレタリアートの革命的文芸兵士」の支配下に置くことを推進した。しかし、実権派批判の運動そのものは、劉少奇国家主席ら実権派官僚の押えこみにより、十分には燃え上がらなかった。そこで毛沢東林彪防相と組んで人民解放軍を味方につけながら、思想問題に敏感で組織的に自由な大学生や高校生、さらには中学生まで引き込んで「紅衛兵」を組織し、そのエネルギーを実権派批判に向けた。これが、文革の第1期である。
 第2期は、紅衛兵の活動が中国全土に吹き荒れた時期と性格付けられる。まず、66年8月の中国共産党8期11中全会で、毛沢東はみずから会場に劉少奇攻撃の大字報(「司令部を砲撃しよう」)を貼り出し、16項目の「プロレタリア文化大革命に関する決定」を決定する。この党決定は、第1項目で、「文化大革命」のプロセスが「社会主義革命の新段階」であると規定し、さらに、「文化革命小組」、「文化革命委員会」、「文化革命代表委員会」などの組織と機関を全国的機関として常設し、大衆運動に依拠して、以後、継続的に「文化大革命」を長期にわたって進めること、すぐ後に始まる紅衛兵運動の論拠として「四旧」(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣)の徹底的打破などを盛り込んだもので、その後の「文化大革命」の方向を決定づけたものである。同時に、この月、毛沢東は「プロレタリア文化大革命」勝利を祝賀する100万人大集会で、天安門の上から数十万の紅衛兵を閲兵し、この時、初めて大衆の前に登場した紅衛兵は毛沢車に紅衛兵の腕章を献じた。こうして、党決定と毛沢東の支持という二重のお墨付を手にした紅衛兵の季節が始まる。学校の授業は全面的に停止され、『毛首席語録』と毛沢東バッジを身に付けた紅衛兵は、北京、上海、天津、広州、南京、杭州武漢、長沙など全国の都市で街頭に出て、「四旧」打破の運動を展開してゆく。紅衛兵は「われわれは旧世界の批判者であり、新世界の創造者である」と主張し、都市、商店、街路、遺跡などの旧名称を変更し、服装、髪形、容姿における「ブルジョワ思想」を批判し、旧資産階級やその子孫、外国人などの排除、特別列車や一等車の廃止、民主諸党派の解散、人民公社の58年当時の原形への復帰、宗教保護の撤廃を掲げて、たちまちその運動は過激化していった。ソ連外交官、外国人宣教師、外人記者への暴行のような排外主義的行動も目立ち始め、武闘化した紅衛兵の行動によって、北京では死傷事件が起きたり、青島で労働者4万名が紅衛兵と衝突し、死傷者140名を出すなど、各地で労働者の紅衛兵への反撃と抵抗も相次いだ。
 こうして、67年以降、一方に毛沢東と軍、青少年からなる紅衛兵の集団、他方に官僚層と一部の労働者層の集団という構図のなかで、後者実権派の手から権力を奪う「奪権」運動が本格的に始まる。これが文革の第3期である。その典型となったと言われる上海の「1月の嵐」の中で、張春橋らは、パリ・コミューンを頁似た「上海コミューン」を創出しようとしたが、常備軍の廃止をもたらすこの構想は、人民解放軍の抵抗にあって流産し、軍代表・革命幹部・革命大衆の「三結合」による「革命委員会」へと後退させられ、実質的には旧党官僚にかわって解放軍官僚が登場するという中途半端な結果しか生まなかった。一方、実権派は労働者の造反派を味方に引き入れて抵抗したため、67年夏の武漢事件(武漠の実権派が軍司令官まで味方に引き入れ、中央政府に反乱を起こし、毛沢東の派遣した特使2名を逮捕したため、周恩来武漢に飛び、その釈放を求めた)に代表されるような内戦寸前の大規模な武闘が各地で繰り返され、数10万人の血が流されたと言われる。この時期の無政府状態を、当時のフランスの新聞『ル・モンド』の極東特派員口ベール・ギランは「旧い党は毛派の行動によって決定的に壊滅し、中国をまとめていた党のネットワークの消滅によって、あらゆる場所で権威が崩れ去って」いたためだと説明している。こうしたなかで、新権力機構の「革命委員会」は、一方で過激化した紅衛兵や武闘派を排除し、一方で実権派と闘いながら、2年近くの紆余曲析のすえ、68年9月になってようやく全国の省・市に成立したが、それは軍官僚主導型で、当初の理想とはほど遠いものであった。しかし、69年4月には、中共九全大会が開かれ、文革の中間総括を行った上で、「文化諸領域を含む上部構造で全面的なプロレタリア独裁を行う」と文革の勝利が高らかに宣言され、毛沢東の後継者として林彪の名が党規約に書きこまれるに至るのである。
 シチュアシオニストがここで描写している「文化人革命」は、この第3期の途中までのことである。文革自体はその後、70年以降、文革推進グループ内部の権力闘争が続き、71年9月には、林彪毛沢東暗殺に失敗して国外逃亡を図り、モンゴルで墜死したとの発表がなされ、その間隙をついて、71年以降、周忌来国務院総理を中心とする実務派官僚による脱文革の「正常化」の動きが活発化する一方で、林彪なきあと文革派の名実ともにリーダーとなった江青張春橋ら「上海グループ」が実務派官僚に対立し、交革派と脱文革のせめぎ合いの局面が出現する。その後、73年に始まる文革派の「反潮流」の動き、それを引き継ぐ74年の「批林批孔」運動での周恩来への攻撃、75年の内政危機乗り切りのための訒小平の復活、76年の文革派の再度の巻き返しによる訒小平の打倒と続いてゆき、76年4月の天安門事件により、江青文革派に対する民衆の怒りが爆宛する。そして、同年9月の毛沢東の死をきっかけに、10月6日、江青張春橋王洪文姚文元の「四人組」が逮捕され、「文化人革命」は実質的に終りを告げることになる。
 今でこそ、「文化大革命」は、60年代中期からの「走資派」による党権力の掌握に対して巻き返しを図ろうとして、毛沢東がしかけた「権力闘争」であったという認識が、中国においても他のところにおいても広く共通のものとしてあるが、67年10月という、まだ「文化大革命」のさなかにあるこの時期に、シチュアシオニストがここで示しているような透徹した認識を提示した例は稀有である。とりわけ、フランスにおいては、66年夏の紅衛兵の出現あたりから、多くの知識人や学生が、ソ連とは異なるまったく新しい社会主義建設の現れとして、あるいは若者の造反による大衆的な永続革命として、中国の「文化大革命」に魅せられ、その偶像である毛沢東を熱狂的に崇め立てたことを考えると、シチュアシオニストのこの批判がいかに鋭いものであったかがわかる。フランスの毛沢東主義者の詳細な歴史を書いたクリストフ・ブルセイエ( CristoPhe Bourseiller,Les Maoïstes ── la folle histoire des Gardes Rouges français, Plon, 1996 )はこの熱狂についてこう書いている。「何があれほどにもフランスの若者を魅了したのか? 端的に言って、それは途方もない誤解である。今になって歴史を振り返ってみれば、文化大革命とは毛沢東劉少奇の間での激烈だが平凡な権力闘争として見えてくるが、当時は、誰もが現象の解放的次元を信じたいと思っていた。それゆえ、紅衛兵はフランスの若者にとって自分たちがたどるべき道を示しているように思えたのである。過激で楽しい喧騒、極端にまで推し進めたばか騒ぎの行進の道を。フランスの親中国派(プロシノワ)にとって、中国は世界中で最も自由な国である。それは、数々の特権を疑問に付し、紋切り型の言葉を廃棄する解放の模範を与えてくれるものである。」
 こうした「誤解」に基づいて、66年駆から68年5月までの時期、フランスでは毛沢東と文化人革命の一種の「ブーム」が起きる。毛沢東主義者の新しい政治党派が次々と結成され(60年代初頭からフランス各地で活動してきた複数の毛沢東主義党派が結集して〈フランス共産主義運動(マルクスレーニン主義者派)〉(MCF(ML))を結成したのは66年6月だし、パリの高等師範学校マルクスの読み直しを行っていた共産党ルイ・アルチュセールの周辺にいた学生らが共産党を脱退して〈共産主義青年同盟(マルクスレーニン主義者派)〉(UJC(ML))を結成したのも66年12月である)、それぞれが毛沢東と「文化大革命」を称賛する。そして、波らに追従して、知識人や芸術家の問にも「文化大革命」を賛美する者たちが続出する。ゴダールは新中国派のデモに足しげく通い、67年9月にはUJC(ML)の学生活動家をモデルにした『中国女』を公開し、若者たちに熱狂的に迎え入れられる。今日、フランスで再評価の著しいハンナ・アレントは『全体主義の起源』の66年版の序文で中国の文革に好意的な評価を下し、イタリアの作家アルベルト・モラヴィアも67年の北京訪問記『毛沢東文化大革命』で文革を全面的に賛美する文章を書く。70年代に入って毛沢東主義者であることを公然と表明するフィリップ・ソレルスも、すでに66年から雑誌『テル・ケル』の内部での論争で文革への支持と毛沢東主義党派との関係を積極的に求めていた。サルトル毛沢東主義者のセルジュ・ジュリーやベルナール=アンリ・レヴィらの求めに応じて発行禁止処分になっていた〈プロレタリア左翼〉(GP)の機関紙『人民の大義』の編集長を引き受け、シモーヌ・ド・ボーヴォワールらとともにパリの路上でそれを配布して注目を集めるのは70年春のことだが、こうしたサルトルの晩年の行動も彼を取り巻く毛沢東主義者の強い影響なしには考えられない。さらには、多くのブティックが紅衛兵を真似た詰め襟の青い労働服を売りに出し、男性雑誌『リュイ』は「文化闘争」と称して、中国服を上だけまとったヌードの女性の写真に『毛語録』を真似た言葉をちりばめた特集を組んだりと、毛沢東主義は1つの文化現象とまでなって街頭にあふれ出た。
 フランスの毛沢東主義は、こうして、新左翼の諸党派の活動家だけではなく、知識人や芸術家を巻き込み、文化現象ともなりながら広まってゆき、それらが相まって68年の「5月革命」の1つの震源となったことも否めない。毛沢東主義の諸党派は「5月革命」が始まった当初は、単なる学生の騒動に過ぎないとして、積極的には参加せず、もっぱら工場でのオルグに精を出したり、単に自分たちの宣伝のビラ巻きをするだけだったが、街頭闘争が拡大すると、バリケードの建設や機動隊との戦闘などの戦術面でUJC(ML)を中心とした毛沢東主義者は力を発揮し、また、その「労働者至上主義」から工場労働者のストライキの支援にも積極的に関わってゆく(「五月革命」の後退局面のさなか、6月10日に行われた、パリ郊外フランにあるルノー自動車工場でのスト支援闘争での彼らの戦いと、そのメンバーであった一高校生の死は有名である)。こうした闘いに共感して、68年以降、毛沢東主義者の党派には、5月革命を闘った多くの学生が新たに加盟し、69年から70年代全体にかけて、〈マルクスレーニン主義フランス共産党〉、〈プロレタリア左翼〉(70年以降は〈人民の大義〉)、〈共産主義万歳〉 (69年以降は〈革命万歳〉)〈フランス共産主義者同盟マルクスレーニン主義派)〉、〈赤色同盟〉など、さまざまな党派が次々と生まれ、あるいは再編成されて、多種多様な運動を展開してゆく。これらについて詳述する余裕はないが、彼らの運動は、工場労働者の組織化と闘争の支援、農民運動」、移民労働者や小規模商店の労働者など虐げられた者たちとの連帯、パレスチナ解放闘争支援、女性解放運動、同性愛者の権利闘争、監獄開放闘争、赤色救援会運動など、68年以降の運動を特徴づけるさまざまな主題と領域に最も率先して関わって展開された。その闘争の方法も、警察署やイスラエルを支持するユダヤ資本の企業への火炎瓶攻撃、フォーションなど高級食料品店からの商品の集団的略奪と貧民への分配、市議会や公共機関の占拠、地下鉄の解放(強奪した切符のばらまき)、極右やフランス共産党武装部隊との戦闘など、実力行使を伴って激しさを増してゆく。その一方で、毛沢東主義者は知識人をうまく取り込み、映画人や作家、思想家から多くのカンパを集め、自分たちの集会や占拠闘争の現場に巧みに彼らを立ちあわせた。サルトルボーヴォワールゴダールソレルスについてはすでに述べたが、それ以外にも70年代以降の毛沢東主義者の運動に同伴した知識人には、哲学者のフーコードゥルーズ、作家のジュネ、デュラス、モーリス・グラヴェル、歴史家のピエール・ヴィダル=ナケ、映画監督のアレクサンドル=アストリュック、ルイ・マル、アニェス・ヴァルダ、女優のシモーヌ・シニョレなど、多彩な顔触れがある。それ以上に、毛沢東主義党派の活動家自体に、その後のフランスの著名な作家や知識人となるものも多く含まれていた。日刊紙『リベラシオン』(フランスを代表するこの新聞は、そもそも1973年の創刊当初は、毛沢東主義者が集まりサルトルなどの協力でできた新左翼新聞たった)の創設者セルジュ・ジュリーが有名だが、他にもアンドレ・グリュックスマン、ベルナール=アンリ・レヴィ、ギー・オッカンゲム、アラン・フィンケルクロート、アラン・バデュー、モニク・ウィティッグらは、毛沢車主義者の積極的な活動家として70年代を闘ってきた者たちである。
 こうして、フランスの毛沢東主義者は70年代を特徴づけるような多彩な運動を展開し、70年代の反体制運動のなかで実践的には大きな役割を果たしたと言える。たが、そうした運動のエネルギーとなったものが「文化大革命」に対する誤解であり、毛沢東に対する幻想であったことを考えると、これを手放しで称賛するわけにはいかない。誤解が消え、幻想が覚めた後、80年代になって、彼らの多くが体制側に寝返り、フランスのメディアを操作し、ニヒリズムの染み込んだ「新哲学」を喧伝した事実を見れば、最初から幻想と誤解の芽をことごとく摘み取りながら運動を構築する努力を行うことで68年の「5月革命」を導き出し、現在もなおメディアが支配する「スペクタクルの社会」を批判する有力な理論であり続けているシチュアシオニストの方法の重要性はいっそう高く評価されるべきだろう。シチュアシオニストのこの論文に影響を受け、1971年にフランスで文革批判の書物『毛主席の新しい衣装──「文化大革命年代記』を発表した中国学者シモン・レイス(Simon Leys, Les Habits neufs du Président Mao ──chronique de la《 Révolution culturelle 》, Editions Champs Libre, 1971)は、その本の序文のなかで、西洋の毛沢東主義者を批判して、こう書いている。「寛大だが弱々しい精神の持ち主たちは、西洋で、革命とはそれを行いたいと望むものがその場で依然として再発明すべきものであり、エキゾティックな農園で熟したリンゴのように摘んでくることはできないということを理解せずに革命を夢みて、自分たちの指導者の一番上に毛沢東の名を掲げてきたが、そのやり方は、啓蒙の世紀〔18世紀の百科全書派の時代〕の哲学者たちが孔子を振り回したのと同じである。孔子の言ったことが正確には何を意味したかは、彼らにはどうでもよい。それについてよく知らなければ知らないほど、彼らはそれをいっそううまく自分の夢想に合うように料理できた。今日のわが哲学者たちも、毛派の歴史の真実について調べてみたいとはほとんど思わないようだ。おそらく、実際の現実と突き合わせると、彼らか自分の頭で考えることをこれほど心地よく免除してくれているこの神活か損なわれるのではないかと心配しているのだろう。」
 第三世界への幻想を振りはらい、自らの場で自らの「革命」を「再発明」すること、シチュアシオニストはそれを一貫して追求してきたのである。

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