われわれの語る世界3

訳者改題


利用可能な革命モデルのあいだの選択

 スターリ二スムがいくつかの互いに対抗する潮流へと分裂し、官僚主義の利害を、経済と政治のさまざまな発展段階(フルシチョフ、毛〔沢東〕、トリアッティ*1)の中に表現している現在、それら相互の非難の応酬の中にはっきりと暴言されているものは、非難する側でも非難される側でも、極左とか修正主義などといった、かつての労働運動の古い立場に依拠することはできなくなったということである。なぜなら、どれほど欺瞞的なものであっても、最低限の団結が失われてあまりに久しいからである。中国は核兵器を欲し、ロシアとの国境紛争を開始し、イスラエルの破壊を求めてその言動をエスカレートさせ、パキスタンやフランス、そしてモスクワのパルチザンを虐殺しているイラクに接近してている。蜜月状態のなかでも最大のものは、ヴェルジェス*2が主幹の雑誌『レヴォリューション』*3と、おそらく今なお協調していることだ。ロシアはすでにその実力のほどを示した。トリアッティ=エルコッリ*4もそうだ。これらの闘士たちすべての間の均衡は、結局のところ、40年来築き上げられてきた革命の歪曲の均衡である。それは、2つの陣営の共通の利害によって維持されているのである。スターリ二スムで一枚岩になっていた時代には、東側を社会主義革命の唯一知られている例にしようとする東西共通の利害によって、この歪曲が永らえていたのと同じことである。西側は、スターリンの革命に対して、いかなる弱みも持ってはいなかった。彼らが、真の革命よりはまだしもスターリンの革命の方を好んでいたという点だけは別であるが。

 北京で発表された新たな非難論文は、彼らがソ連指導部の「不名誉」と呼ぶものを断罪するためのものだが、今後も続く一連のものの最初の論文とされている。(……)「そして、ハンガリー反革命勢力がブダペストを占領した危機的な時に、彼ら(ロシア共産党指導部)は、しばらくのあいだ、降伏政策をとり、社会主義ハンガリー反革命に明け渡すつもりだった」。中国の資料を信じれば、ハンガリーで情況が立て直され、強行な手段が採られることになったのは、北京の介入によるものである。

ル・モンド』紙、63年9月7日付

 アルジエでのアジア・アフリカ連帯会議で(……)、中国への非難決議は出席国のゆうに三分の」の賛成を得た。(……)しかしながら、フランスに対する言及が全くないことについて、どの国も気づいていた。フランスのガボンでの行動*5は、最近のアフリカでの帝国主義の現れの1つに引用されてはいなかったのである。

ル・モンド』紙、64年3月二25日付

 共産党の週刊誌『リナスチタ』に掲載された記事で、トリアッティ氏は、社会主義者が政権に就けばその国ではすべてが変わるとネンニ*6氏が主張していると書いている。「それこそは粗雑で劫稚な議論である。(……)われわれはそのような権力観を『スターリニスト』の権力観と呼ぶことができるだろう」と彼は断言している。

ローマ発AP、63年11月16日


最後のショー──司祭たちがそれを蘇らせる

 教会は、聖なる背後世界の上に築かれた社会的スペクタクルの独占を防衛する一方で、あらゆる「スペクタクル」を長いあいだ攻撃してきたが、今や世紀のスベクタクルのなかに自分の場──限られたものではあるが重要な場──を確保しようとしている。教会は有益な譲歩を行い、スター法王を演出し、強制収容所の初歩的実験(プリミティヴィスム)が断念した実験を未だに行っている堕落した建築家を回収している。司祭たちの国際結社(インターナショナル)は、どこでも、どんな声色ででも、声を上げることができる。異端審問所の生き残りの声色でも、野蛮な青年たちの中に降り立った者の声色でも。おまけに、彼らは「赤いキリスト教」の恐るべき奇形思想家や、今日の左翼の途轍もなく空虚な思想に守られた保育器の中でしか生きられないテイヤール〔・ド・シャルダン*7的突然変異体を生み出している(本書の「言葉とその使用者たち」および「数り散りの異議申し立て」の章の例を参照せよ)。しかしながら、世界中の異議申し立てがまず何より宗数的な用語で提起されねばならなかった時代が終わって以降、非−正統派のキリスト教徒など、明らかに存在し得ないだろう。キリスト教はすべて、世界教会運動によって統一される以前に、すでに、理論的に統一されている。宗教批判を放棄することは、必然的に、あらゆる批判を放棄することの究極の姿である。

 〈ナチによる披迫害ユダヤ人同盟〉資料センターの元所長で、現在、アウシュヴィッツ裁判に出席しているジーモン・ヴィーゼンタール*8氏によると、「強制収容キャンプの死体焼却炉の建設者は、今でもオーストリアに生活し、つい最近、教会を建設した」とのことである。

ル・モンド』紙、64年3月7日付

 1963年12月4日、第2ヴァチカン公会議の第2会期の閉幕セレモニーの最中に、法王がパレスチナを訪問することを告げた時には、たいへんな驚きだった。(……)カトリックのいくつかの陣営と、プロテスタントの全陣営のなかなら、この旅行が、多くの点で、予期せぬ不快なやり方で発表されるべきではなかったと嘆く声が聞かれた。これほどの無秩序な意見の表明を避けることはできなかったのか。アメリカ流のこの過度に鳴り物入りの発表を。セレモニーに大衆的な性格をまとわせることが望まれたという点は認めるとしても、広告技術の集中砲火からは守られるべきだったのではないだろうか。カメラマンも映画監督も多すぎた。

ル・モンド』紙、64年6月20日付

 近くヨハネス23世*9の映画がエルマンノ・オルミ*10によって撮られる。撮影は夏の終わりに始まるだろう。監督は、法王を1人の俳優の姿で登場させることに躊躇し、法王を見せるのにドキュメンタリー・フィルムを活用することを提案している。

ローマ発AFP、64年5月9日

 

 フランスの教会は、日曜の3時課〔カトリックで午前9時頃の聖務〕の時間に行われる宗教礼拝を遅らせることを考えている(……)。というのは、300万人のフランス人が、10時から12時までの間、〔サッカーの〕チケットを手にしているからである(……)。 

『ウィーク=エンド』誌、64年2月22日号

 「わが国の浜辺を創造した神は、浜辺が乱交パーティーの場となり、道徳心も羞恥心もない半裸の男性やビキニ姿の女性がわれわれの子供たちの純粋な眼を曇らせ、われわれの大人たちのなかに性的本能の炎を燃え立たせるようにするために、それを作ったのではない」と、カナリア諸島の司教アントニオ猊下が、司牧回状のなかで明言している。

『フランス=ソワール』紙、64年5月10日付

 142の教会を建設するのに、(……)時が追っている。この壮大な作業は、もっぱらパリ市民の度量の大きさにかかっている。それゆえ、すべての者がその努力をわれわれの「教会建設者」の努力に大胆にも付け加えるよう願う。枢機卿の建設現場に石材を運ぶのを拒む者はいるまい。

フェルタン枢機卿の声明、64年4月23日

 イギリスの不良青年の二大敵対グループである「モッズ」*11と「ロッカーズ*12との間での新たな取っ組み合いの衝突が、土曜日、イギリス中部とロンドン郊外の多くの都市で起き、100名近くの逮捕が執行された。しかしながら、「ロッカーズ」たちは、皮製のバイク・ジャケットを着てライダー姿で飢餓撲滅運動を行っている牧師を肋けたため、トラファルガー広場で、地区教会の教区主管者代理のオーステン・ウィリアムズ同胞から祝福を受けたのである。

『フランス=ソワール』紙、64年5月26日付


散り散りの異議申し立て

 壊滅寸前の左翼思想家世代の全員が、もはや服従の戯画的イメージとしてしか自分を示すことができないでいる。彼らは、スターリ二スム──主として中国の──を、見込みのある仕方で何とか再生させることに身を捧げ、そこで、崇拝はするが理解はしなくてよいものから踏み付けられ、追い払われて喜んでいる殉牧者と同様の宗教的マゾヒスムを満たし続けるか、それとも、自分たちに差し出されたテクノクラートとしての成功(支配的社会組織への異議申し立てを、細部において、より緻密に行えるだけに、いっそう称賛に値するとともにいっそう手っ取り旱い成功になるだろう)の華麗な姿に眼を見張るかのどちらかである。この組織は、その働きを改良し永遠のものとするために、社会を革命的−改良主義的に「1つ1つ」変えようとする異議申し立てを最大限に利用するだろう。異議申し立ての管理者、すなわち異議申し立てのがらくたの管理者がたちまち見せつけた愚劣さの証は、すでに、抑圧と愚鈍化のシステムが最大の勝利を得たことを示している。ロワール=アトランティック県の聖歌隊長マレ*13は、アンドレ・ゴルツ*14のひどくふやけた最新の盗作本のなかに、すべての前衛潮流が、あるいは、ただガルブレイス*15だけが、何年も以前から主張してきたいくつかの論拠を発見して感動している。その結果、彼のテクノクラートとしての自尊心は大きく膨らんで、経済指導者層への参加を公然と讃え、彼の幸福をあえて知ろうとはしなかったエングルスの未開性(プリミティヴィズム)を高飛車に非難するまでになっている。また、ガルダンは、〈神の王国〉の意味の賛否を問う投票は組織しないくせに、「革命を再開」するはずの彼の運動に対して、1910年の哲学教投たちを粗雑に偽造した反マルクス主義的な綱領をそのまま提示するのである。

 〈APFC〔フランスー……‐国人民友好協会〕の実現のための委員会〉のメンバーは、いずれにせよ、中国側代表から認められることを望んでいないはずはない。しかし、彼らはとても頭脳明晰なので、「ノン」と言われた場合にも怒り出さないし、とても偉大なので、『ユマニテ』紙*16のように北京から泥の中に引きずり落とされた場合でも絶望に陥ることはない。彼らの目に最も重要だと映るものは、彼ら自身の仏中人民友好協会のささやかな計画の成功よりむしろ、どんなものでもよいから、同様の仏中人民友好協会の計画が成功することにある。

クロード・カダール*17

『フランス=オプセルヴァトゥール』誌、64年2月13日号

 「集団の活力」に関する現代社会学の理論に影響を受けて、バリ−リヨン協会の指導者たちはその理論の中に、教養課程で特にひどい学生たちの孤立を破る1つの手段を見出している。つまり、自由な組織を作らせることによって、自分たちの問題と自分たちの要求を意識するよう彼らを導くのである。(……)大会は、「参加型アンケートの形式で行われる研究によって、学生たちに自分たちの問題に関心を持たせる可能性を研究する」目的で、UNEF〔フランス全学連〕とフランス学生共済会のメンバーを統合する研究センターを、国レヴェルでも地方協会レヴェルでも創設することに同意した。

ル・モンド』紙、63年4月13日付

 1958年のゴルツはまだ、現代の労働者の現実の全体も、単なる経済的な現実も知らなかった。(……)彼にとってもわれわれにとっても幸運なことに、彼は、生活の糧を稼がねばならなかった。そして、彼は、大週刊誌の経済欄を担当してそれを稼いだが、最初のうち、それは、私の想像では、彼の求めたものではなかった。だが、結局、エンゲルスが、1844年以来、自由主義的で市民的な知的生活を捨てて、あの「商売の犬」に身を捧げることを余儀なくされていなかったならば、彼はおそらく経済学を何も理解できなかっただろうし、若きヘーゲル学派の哲学者で彼の友人のマルクスにもそれを発見させることはなかっただろう。
 哲学的分析こそが、労働関係の合目的性を再発見することで、政治理論家を「改革か革命か」という類の偽のジレンマから解放することを肋けるのである。(……)
 統合と闘うことは、まさに、「管理政策が練り上げられるベースとなる資料を奪い取り、経営者の決定を先取りし、各段階で自分自身の代案的解決策を提出する」ために闘うことである。そして、そのことによって、どのような「演説による異議申し立て」よりも有効に、資本主義的管理に異議を申し立てることができるだろう。(……)
 社会設備の費用を資本主義に払わせることを手始めとする、消費の新しいモデルの創造のために闘うことは、資本から1つ1つ経済的力を奪い取ることをめざす、彼の推奨する革命的改良主義の主要な環の1つのように、ゴルツには見えるのである。

セルジュ・マレ、

『フランス=オプセルヴァトゥール』誌、64年5月21日号

 編集ノート──〈社会主義か野蛮か〉のメンバーのほぼ全員にとって、〈神の王国〉が実質的に意味を持たないということ、それと同時に、これらのメンバーは、考え方の異なる自分たちの同志の1人が、自分の意見を表明するのを妨げる理由をそこに見出さないということ、これらのことを喚起することはかろうじて有益である。

社会主義か野蛮か』誌、第36号、1946年4月(85ページ)

 マルクス主義者の歴史理論は(……)、最終的には、人間の性質は本質的に変化せず、その優勢な動機は経済的動機であろう、という隠れた公準に基づいている。

ポール・カルダン、『社会主義か野蛮か』誌、第37号、1964年7月


義務も制裁もなきモラルの粗描

「われわれの実験的時代がいまだに実験していない唯一の原料、それは精神と行勣様式の自由である」(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第8号)。世界の統一性は、今日の抑圧的諸条件の統一性のなかに現れている。疎外のこの根本的統一性は、いたるところで、隔離、分割、一貫性の欠如、些事にこだわる管理(すべてのイデオロギーが同時に弱まるにつれて、そして、常にますます大量に、イデオロギーが生のそれぞれの細部を「プログラム」しなければならなくなるにつれて、芸術の管理は必然的に権力の全般的管理に合流する)として表現されている。自由の一貫性にも、抑圧の一貫性にも、最初の運動として、個人のあらゆる一貫性の欠如を暴露することが必要とされる。この一貫性の欠如とは、自由の敵の避難所であり、その技術なのである。一例を挙げよう。中国の小学生が愛すべき5つのものは、「労働−家族−祖国」という標語にはっきりと表されているが、この標語はここでは主人=パトロン(「人民」と呼ばれる)への愛から改良されたものである。レーモン・ボルド*18は、長年のあいだシュルレアリストによって守られた「良きスターリニスト」たったが、今や、シュルレアリスムと、より時事的ないくつかの指摘をともなうかなり因襲的な文学的ユーモアとを混ぜ合わせたパンフレット(『解きほぐしうるもの』)を発表するまでに非スターリン化された。ボルドは労働と家族を嫌悪し、革命とエロティスムとが結合して実現されることよりほかに何も期待していないことを隠さない。その同じボルドは、同時に、親中国派の活動家でもある。愚かなのは誰なのか。ここから誰が結論を引き出すのか。

 ケープタウンの裁判所は、南アフリカの35歳の白人ミュー・ジシャン、スタンレー・グレイサーと26歳の混血の女性歌手マウド・デイモンズに対する2枚の逮捕状を発行した。2人は白人と黒人もしくは混血との性的関係を禁じた不道徳法に違反したがどで告発されていた。2人の容疑者はベチュアナランド〔現ボツワナ〕の英国保護区に逃亡したが、そこからタンガニカにたどり着くことができるであろう。

ル・モンド』紙、63年1月6日付

 デンマークの若者は、今後、大人は立入禁止の自分たち専用のバーを手に入れる。それは「ポップス」というもので、英語の「パブ」という語と同じ意味である。そこでは、いろんなカクテルが飲めるが、すべてミルク・ベースのものである。ディスコは最新流行の音楽をかけてくれる。デンマークの若者は、朝10時から夜10時までそこに行くことができる。コペンハーゲンにそれが3店開かれているが、どれも異常な賑わいである。そこでは、少年や少女が議論し、宿題をし、とりわけ互いに再会することに満足している。

『フランス=ソワール』紙、64年5月6日付

 私は単に工業と農業の問題に対して権限があるだけではない。文化の問題にも権限がある。なぜなら、私は共和国の大統領であり、共産主義者同盟の総書記であるからだ。

ティトー*19、『ナサ・ステンパ』誌、1963年2月

 ソヴィエトの文学記者たちは、つい最近、エフトゥシェンコ*20の模倣者である詩人ブロツキー*21が、放浪生活をしたとして告発され、法律第273号を適用されようとしていることに抗議しなければならなかった。この法律は、社会的寄生と怠惰を罰するために、1961年にソヴィエト最高会議幹部会によって採用されたものである。

『レクスプレス』誌、64年6月25日号

 

 ソ連国内で有効な現行の身分証明書(不適切にも「パスポート」と呼ばれている)を労働手帳に変更するという提案は、ソヴィエトの新聞雑誌界のあいだにとても大きな反響を生み、計画に好意的な多くの読者の投書が掲載された。「労働パスポート」となる新しい労働手帳は、誰もが身につけなければならないものだが、そこには、旧いものに書かれていたよりもずっと細かい情報が書かれることになるだろう。学校の卒業資格、職歴の全段階、企業から企業への移動、職業的道徳的態度、余暇期間中の「社会活動」などについて書かれるのである。
 この差別は、新聞に投書する読者のなかでも重要な階層の人々の賛同を得ているように見える。すなわち、老齢の労働者と中年の労働者、とりわけ長期間、同じ企業で働いている人々である。この計画は彼らにとって有利なのである。新聞の解説を読む限り、優れた労働パスポートを持つこの労働者たちは、住宅、最高級のヴァカンス、社会保険の利率、裁判、種々の異議申し立てなどにおいて優先権を持つ市民になるだろう。『トラウト』紙の一読者はこう書いている、「婚約者たちが、彼らの将来の労働パスポートを一瞥することも悪くないだろう。優秀な労働者は優秀な家族の父親になるからである」。

『フランス=オプセルヴァトゥール』誌、64年3月12日号

 これらの活動の多くは、コムソモール〔共産青年団盟〕の機関が古典的に組織していた活動と本質的に異なるものではない。ソヴィエトの新聞によると、それらを特徴づけるものは、青年「共産党員」が自らその方式を決定するところにある。さらに、「青年共産党員クラブ」が「率直な集会」を聞催し、そこで各会員のグループヘの態度について議論する。(……)この自主管理の始まりは、少なくとも外見的には、西側の「社会心理学者」が没頭している研究と同じ方向の研究のいくつかを思い起こさせないこともない。

『フランス=オプセルヴァトゥール』誌、64年6月4日号

 「全エネルギーを中国の社会主義建設に棒げることができるように」避妊手術を受けた中国人男性が、周忌来氏から公衆の面前で熱烈な祝福を受けたと、共産主義者青年同盟の月2回発行の機関誌『共産主義青年』の9月1日創刊号が報告している。(……)『共産主義青年』と、共産主義者青年同盟もう1つの機関誌『青年日報』は、さらに、出産制限の問題にかなりの紙面を割き、独身でありつづけたくないと強く望む場合でも、できるだけ遅く結婚することを奨めている。(……)共産主義者青年同盟はまた、独身で純潔を守り続ける決意を公言する青年男女の読者からの多くの手紙を公表している。

ル・モンド』紙、63年9月18日付

 道徳的、市民的、政治的教育は、小学校では偶然に左右される。そうした教育は教師の手本や、学校での生活スタイル──言わば、罰則のない──、ある種の労働宗教の結果としてなされ、礼儀正しさや道徳心はあらゆる瞬間の活動のなかに介入することになる。教師の任務は、実際的な仕方で「5つの愛」、すなわち人民、祖国、労働、国民的財産、両親への愛、を教え込むことである。

デシレ・ティ、『中国通信』(1963年、ベルギー−中国協会が配布)

 内務省大臣は各県知事に通達を出し、「モノキニ」〔トップレスのこと〕の着用を許可する権限は市長にあるのではないことを喚起するよう依頼した。この水着は刑法第330条に規定されている公然猥褻罪の対象である、とフレー氏は明言している。したがって、いかなる公共の場でもこの水着を使用する女性が訴追されるように、知事は各警察署の注意を喚起しなければならなくなる。

ル・モンド』紙、64年7月25日付


「すべてが続いてゆくと、私は認めざるをえない」(ヘーゲル

 現在、組織されているような生を拒否することが、アフリカの黒人やスカンディナヴィアの「絶えず」反抗している青年たちを、さまざまなレヴェルで特徴付けている。この2年間、実際には1度も途絶えたことのないストライキを行っているオーストリアの鉱山労働者、チェコの労働者についても同じである。ラゴス〔ナイジェリアの首都〕のストライキの「お祭り気分」は、1961年1月のワロニー〔ベルギーの南部のフランス語圈地域〕にも、ブダペストにも同じように存在してきた。いたるところで、新しい革命組織の問題が漠然と提起されている。そしてそこでは、支配社会が十分よく理解されているが、それは、あらゆるレヴェルで支配社会に抗して実際に行動するためであり、支配社会を再生産するのではまったくなく、それを完全に転用するためである。それは「光のなかに一挙に新しい世界の形を描き出す日の出」である。

 アルゼンチンの共産主義青年のゲリラたちは、海賊放送によって技術革新を遂げた。彼らは、海賊放送によるニュース番組を放送したのだ! 銃で武装した5人の若者が、昨日、アルゼンチンのニュース番組のオフィスに乱入し、カメラマンに強制してブエノスアイレスの中心街に共産主義者プロパガンダを流させたのである。

『パリ=プレス』紙、63年1月10日付

 木曜日、マドリードで、テロリズム行為によって起訴されていた3名のフランス人学生か、特別軍法会議にによって、12年1日から30年の懲役別に処せられた。これらのフランス入の若者たちは、去る4月に逮捕された者たちである。元ジャンソン=ド=サイイー高校生徒で大学入学資格者のアラン・ペキュニア(17歳)は、バルセロナの船舶クイダード=デ=イビサ号上で小型爆弾を爆発させた罪で12年1日の懲役2つの判決を受けた。オベールヴィリエ美術学校の学生ベルナール・フェリー(20歳)は、バレンシアイベリア航空の会社の前に爆弾を仕掛け、2人の子供に軽傷を負わせた罪で懲役30年の判決を受けた。ヴィルフランシュ=シュール=ソーヌの哲学部学生ギー・バトゥー(23歳)は、マドリードで爆弾所侍中に逮捕され、懲役15年の判決を受けた。

ル・モンド』紙、63年10月19日付

 オルフス〔デンマーク中部の港湾都市〕の港湾労働者とオーゼンセ〔デンマーク中部、フューン島の港湾都市】の港湾労働者は、ドイツの貨物船ブランチスバーク号が運んできた南アフリカ産のピーナッツの荷揚げを立て続けに拒否した。そのため、同船はハンブルクまで行ってその荷を降ろさねばならなくなり、荷物はそこからデンマークまでトラックで運ばれることになった。コペンハーゲンでは、この新しい事件が、7月に判決が下った問題と同じ問題を引き起こすだろうと考えられている。その問題の結末は、同様の情況のもとでスウェーデンの軍艦ロマラン号の荷揚げを拒否した港湾労働者が全員、罰金刑に処せられるというものであった。

ル・モンド』紙、63年8月14日付

 コロンビアで、コロンビア陸軍の3個大隊が、マルケタリア地方に向かって行車している。マルケタリアは、完全に共産主義者勢力に支配され、コロンビア領内の一種の「独立共和国」となっているが、そこに、国家の権威を回復する目的である。この地方は、いかなる地図にもその名が書かれていないが、5000平方キロメートルの広さがある。それはトリマ州とフイラ州の間に位置する。

ル・モンド』紙、64年5月21日付

 その日、200名の海軍陸戦隊員の分遣隊がリオデジャネイロの冶金工組合の先頭に立って、1500名の冶金工と反乱水兵を排除しようとしていた。彼らが到着した直後の一瞬の沈黙の後に、「反乱者」のリーダーの二25歳の背の低い冶金工が、バリケードの上からこう叫んだ。「同志たちよ、私は君たちを知っている。君たちの最大の願いが、ここに来てわれわれに合流することだということを知っている」。そして、彼の手の合図で、1500名の反乱者が海軍の讃歌「白鳥」を合唱し始めた。典型的な北方人の特徴を特つ1人の海軍陸戦隊員が、列から出て、弾帯を外し、武器を地面に投げつけて、建物の中に入った。194人の彼の仲間も、彼の行動に続く運命にあった。したがって、水夫たちの反乱は重大な結果を招くことになることが推察されていた。

ル・モンド』誌、64年4月3日付

 この春以降、全学連は、ポラリスを搭載したアメリカの原子力潜水艦隊の日本への寄港*22に反対する一連の行動を組織した。抗議行動は同時に日本政府に対しても行われたが、それは政府が最終的には日本の核武装を目的としてポラリスを受け入れることを決めているからである。この闘争における最も深刻な困難の1つは、日本共産党があらゆる機会をとらえて、闘争を反米運動に、すなわち「合衆国による日本の占領と支配」に反対するナショナリスト的で愛国主義的なキャンペーンに変えようとしているところにある。もう1つの困難は、労働運動の指導部が、社会党の影響を受けて、労働者の現在の闘争を常に何らかの目的にねじ曲げてしまうことである。こうした困難にもかかわらず、さまざまな抗議行動が全学連の学生によって、日本中で繰り広げられ、彼らは、日韓交渉や、中国の核実験準備、タヒティでのフランスの核実験などにも抗議した。9月13日には、東京で、数百名の学生が外務省前で抗議行動を行った。全学連副委員長の高木徹*23が、抗議行動中に逮捕された。(……)

『前進』(国際版)誌*24、1963年11月号

 コンゴでは、不良青年たちが布教団宿舎を燃やしている。(……) コンゴ人の若者たちのグループは、3名から70名のメンバーで構成され、その年齢は14歳から20歳である。彼らは、ショート・パンツをはき、弓と失、マチェーテ〔大刀〕を持ち、なかには槍を持っている者もいる。日中は森の中で眠っていて、夕闇になると約束の場所に集まってくる。ゆっくりと走りながら移勤して、それぞれとても離れたいくつかの場所を襲撃することもある。グループにはそれぞれ団長と書記と将校とがいる。(……)彼らのリーダーのピエール・ムレレ*25は、エジプトと中国でパルチザン戦争の戦術を学んだと言われているが、1961年に暗殺されたコンゴ政府のトップであったパトリス・ルムンバ*26に近い人物だった。若者たちのグループは非常に迷信深く、いつも、自分たちのボスが夜に移動する小型飛行機のことを話しているが、その飛行機は1人の入間を一瞬にしてある場所から別の場所に運ぶことができるのだと言っている。これらのグループはしばしば、一夜に30キロから50キロの距離を進む。彼らは自分たちの機動性を大いに誇張してはいるが。(……)彼らはお互いを「同志」と呼び合い、「われわれは泥棒ではない」と、たえず自分かちの正直さを言明している。(……)これは、いたるところで20歳未満の者たちを蝕んでいる危機との比較に耐えるように思われる。

『オブザーヴァー』紙*27、64年、4月19日付

 5月1日、プラハで学生がデモ行進を行った。(……)金曜日の事件は、公式筋によると、三面記事に属するもので、政治的事件ではないということである。「フーリガン」と呼ばれる怠け者たちが歌を歌おうとしていたところ、騒ぎに惹きつけられたまじめな通行人たちが好奇心からそれを眺め、あるいは非難の声を上げただけのことである。西側の通信社の外電は、このデモは党の政策に反対する学生と高校生によって指導されたものだと伝えている。(……)チェコスロヴァキアの通信社CTKは事件の存在を確認したが、その重大さを何とか過小評価しようとして、次のように伝えた。「(……)指摘された2つの場所で、群衆の数は1500人を越えなかった。治安部隊のメンバーは観衆の力を借りて秩序を回復することに成功した。結局、31名のデモ参加者が投獄され、そのうち5名は若い女性だった。」

ル・モンド』紙、64年5月5日付

とりわけラゴス〔ナイジェリアの首部〕では、ストライキ中のヨーロッパの都市の雰囲気とはまったく異なったとても奇妙な雰囲気につつまれていた。支配的な感情は喜びであり、祭りの気分であった。月7リーブルしかもらっていない者たち(警察犬には15リーヴルかかるのに)が、自分に何ができるかを発見した。彼らはストライキにたいへん満足していたため、運動はすべて驚くべき上機嫌のなかで展開したのである。(……)

E=R・ブロンディ、

『フランス=オプセルヴァトゥール』誌、64年7月9日号

 黒人たちの側も、自らを組織している。ある刑事によると、何人かの暴徒は小型のラジオ発信器を待ち、それを使って警察の部隊の移動に関する情報を伝えていたかもしれない。2週間前に作られたハーレム「防衛評議会」議長のエプトン氏は、自分たちの組織が多くの細胞に分かれていると述べた。この網の目式の形態は「人々が警察に対して自らを防衛するのを助ける」ためのものである。「防衛評議会」は、さまざまなポスターを印刷させてきた。その1つには、最近1人の黒人青年を撃った警官ジリガンの写真の下に、「殺人容疑者」という文字が書かれている。

ル・モンド』誌、64年7月26日付

 猿の肌、アヒルの羽、椰子の葉、墓場から取ってきた造花、それがムレレ派の制服の主要要素であるように私には見える。しかし、独創性が排除されているわけではなく、金属タワシやタイプライターのリボン、クリスマスのボール飾りが優雅な装飾になっていることもある。(……)
 その瞬間、防衛隊の「シンバ」*28の1人が、2階のバルコニーで涼を取っている2人のヨーロッパ人を見つける。彼は、自分の力に酔って、フランス話でこう喚く。
 ──君たちは、自分が出頭を命ぜられていることを知らないのかね。さあ、ほら、降りろ。でないと撃つぞ! 兄弟たちよ、これが革命なのだ!
 2人の白人は命令に従う。私たちはみんな見つめ合った。それまで装っていた冗談ぽい口調や社交的会話の話し方は、塗料のように剥げてしまった。後に残っているのは、うんざりするような、油断のならない絶えざる不安だけだ。
 ──やつらは遊びでやってるんだ。と、誰かが悲しそうに私に言う。やつらはいつでも、人を殺すときでも、遊びでやっているんだよ。

Y=G・ベルジェス*29、「コンゴの奇妙な反乱者の間で過ごした1週間」、

『フランス=ソワール』紙、64年8月4日付

SIは君たちにそれをはっきりと言っていた!

 「自惚れに満ちた過ちがこんなにも混入しているからには、レネ*30のケースを再検討せざるをえない。(……)彼は、『ヒロシマ』をめぐる議論の際にアンドレ・ブルトンを参照したにもかかわらず、ロブ=グリエ*31に一任することによって自分の力量のほどを正確に示したのである。(……) ロブ=グリエは、小説を破壊するには余りに遅きに失したが、それでもレネを破壊することにはなった。レネがスペクタクルのなかでも最も大袈裟で最も虫の食ったものに再び陥ったからには、次のように結論せざるをえない。すなわち、(……)われわれ以外に、現代の芸術家は考えられないということである。」

ミシェル・ベルンシュタイン

アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第7号

 「私は、アラン〔・ロブ=グリエ〕がシナリオも監督もすべて行った最初の映画が限りなく好きである。そして、それを『マリエンバート』*32に対置したり、あるいは、『不滅の女』*33が『マリエンバート』の一種の副産物であると思わせたりすることは、まったく空しいことである。(……) 『不滅の女』について何が言われようとも、それは映画であり、映画でしかありえないものである。ロブ=グリエは、まだまだほかの映画も作るだろう。とりわけ、私といっしょに。」

アラン・レネ、『レクスプレス』誌、1963年4月4日号

「『プラネット』誌を朗読すれば、口が臭くなるだろう」

アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第7号

 「それは、ヌーヴェル・ヴァーグの誰もが認める議論の余地のない指導者である。(……)40歳を過ぎたのに、いまだに学生のように見えるこの青年は、自分が評価する作家たちに頼んだシナリオを尊重しながら、目立たぬ仕方で映画を作っている。(……)あのハリー・ディクソン*34は、スクリーンの上で、ファントマ*35やロカンボル*36よりもずっと常軌を逸した冒険を生きるだろう。『でも、観客に目配せすることはまったくないでしょう』と、まじめなレネは言う。彼は、われわれを夢幻境やシュルレアリスムの領域に確実に入り込ませてくれる。空想科学雑誌『プラネット』のジャーナリスト、フレデリック・ド・トヴァルニキが、そのシナリオに参加している。まさにサイエンス・フィクションが、レネの次の映画『ジュテーム・ジュテーム』*37のテーマとなるだろう。作者は、空想科学小説の作家で同じく『プラネット』誌のジャーナリストのジャック・ステルンベルグ*38である。

『フランス=ソワール』紙、1963年1月23日付

*1:パルミロ・トリアッティ(1893−1964年) イタリアの政治家。1921年のイタリア共産党創始者の1人で、ファシスト政権下にはソ運に亡命、コミンテルン執行委員となる。44年、イタリアでのレジスタンス開始とともに帰国し、党書記長に就任、47年まで閣僚となる。56年には反スターリニズムの立場をとり、その年のイタリア共産党第8大会で「社会主義へのイタリアの道について」を報告し、後のユーロコミュニズムに道を開く革命路線を提唱した。

*2:ジャック・ヴェルジェス フランスの弁護士 アルジェリア戦争時にジャンソン機関に積極的に関係し、57年に、『恐怖の報酬』で有名なフランスの小説家ジョルジュ・アルノーとの共著『ジャミラ・ブーヒレッドのために』(F LNのために爆弾を運んだ容疑で逮捕され、拷問の末、有罪判決を受け処刑されたアルシェリア人の少女ジャミラを擁護する本)を発表したほか、60年のジャンソン裁判の弁護をしたことで知られる。

*3:レヴォリューション』 1960年代初頭にヴェルジェスが発行した親中国派の雑誌、パリのカルチェ・ラタンの学生によく読まれた。

*4:トリアッティ=エルコッリ エルコッリはトリアッティの筆名。第2次大戦中モスクワに亡命したトリアッティは、エルコッリの名でコミンテルン執行委員としてスペイン内乱を指導したことで知られる。

*5:フランスのガボンでの行動 中央アフリカガボンは1960年にフランスから独立を達成したが、独立後の大統領レオン・ムバの親仏的態度(例えば国軍の上級ポストはフランス人将校に占められていた)や批判勢力に対する封じ込め政策に不満を持つ軍部の若手将校は、64年2月18日にクーデタを起こし、ムバを失脚させ、社会主義的な臨時政府を樹立した。これに対して、ブラサヴィルとダカール駐留のフランス軍が軍事介入を行い、2日後の20日までに臨時政府を解体させてムバを復権させた。

*6:ピエトロ・ネン二(1891−1980年) イタリアの政治家。1921年来の社会党員で反ファシズム運動に活躍。戦後は、56年まで共産党と協力したが、それ以降は社会民主党に接近。63−69年に副首相。

*7:ピエール・テイヤール・ド・シャルダン(1881−1955年) フランスの古生物学者・人類学者・探検家にしてカトリックの神父。アジアやアフリカヘの数多くの調査遠征で人類の化石を発見し、東アジアの人類史を研究、人類のアフリカ起源を提唱した。また、汎神論的な特異な宇宙生成論を展開し、教皇庁の異端審問機関から禁書扱いをされたことても知られる。著書に『人類の誕生』(56年)、『人類の未来』(59年)など。

*8:ジーモン・ヴィーゼンタール(1908−) 現ウクライナのリヴォフ生まれ、プラハ建築学を学んだ後、リブォフの建築事務所で働く。第二次大戦中にドィツ軍によって強制収容所に送られるが、かろうじて生き残る。戦後、アメリカ軍に協力し、戦時期のナチス戦争犯罪の証拠を収集、47年から、独自の団体〈ユダヤ歴史資料センター〉をオーストリアリンツに開設、ゲシュタポの責任者でブエノスアイレスに逃亡していたアドルフ・アイヒマンの逮捕などの成果を上げる。61年から〈ユダヤ資料センター〉の名で、ウィーンを拠点に世界中の戦争犯罪人の追求を行う,77年に、ロサンゼルスに〈サイモン・ワイゼンタール・センター〉を開設し、以来、そこを拠点に人権の擁護と反ユダヤ主義の告発の活動を続けている。ワイゼンタールは英語読みの発音。元来はヴィーゼンタールと呼んでいた。

*9:ヨハネス23世(1881−1963年) 58−63年に在位した教皇。即位後、ヴァチカン公会議を開催。世界平和、教会合同、教会改革に努めたと言われる。

*10:エルマンノ・オルミ(1931−) イタリアの映画監督。ミラノの大企業に職を得た青年の無味乾燥な生活を描いた『イル・ポスト』(61年)の成功以降、イタリアのネオ・レアリズモの後継者としての地位を確立した。作品にカンヌ映画祭グランプリを獲得した『木靴の樹』(78年)、ヴェネチア映画祭銀獅子賞の『偽りの晩餐』(87年)など。ここで触れられているヨハネス23世の映画とは、65年の『そして1人の人間が来る』のことと思われる。

*11:「モッズ」 1963年頃からイギリスに出現した若いビート族。エドゥワード朝の衣装や髪型などを超現代風にアレンジして身に着けた少年少女たち。

*12:ロッカーズ 1960年代のイギリスで、革ジャンパーなどを着てバイクを乗り回した暴走族の若者たち。

*13:セルジュ・マレ(1927−73年) フランスの新言説の政治理論家。戦後フランス共産党に入党し、活動していたが、58年に離党し、『フランス=オプセルヴァトゥール』誌に協力。自ら他の離党者とともに〈共産主義トリビューン〉を結成、それを母胎に、60年にクロード・ブールデらとともに新左翼の統一を図り統一社会党を結成。マレはこの党の理論的指導者となり、社会主義研究センターを組織、多くの社会学者やさまざまな党派の活動家を集めて、60年代初頭に注目を集めたパンフレットを数多く出版した。マレ、C・ルフォール、マンデス・フランス、P・ナヴィルによる『労働者は経済を管理できるか』(61年)、マレ、ルフォール、モラン、ナヴィルによる『マルクス主義社会学』(63年)などである。ここから「聖歌隊長」と、シチュアシ寸ニストが揶揄しているのである。マレは、やがて、社会学によるマルクス主義の改造を主張し、大学で社会学を教るようになるが、経済決定論を退け、新しい労働者意識による「自主管理」を唱えるその主張は、68年の1つの理論的背景となったと評価する者もいる。著書に『新しい労働者階級』(63年)、『労働者権力』(邦訳、77年)など。

*14:アンドレ・ゴルツ(本名ジェラール・オルスト 1923−) ウィーン生まれのフランスの社会主義理論家・エコロジスト,1946年、亡命先のスイスでサルトルと知り合い、フランスに移る。『レクスプレス』誌(1955年から64年)や『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌などのジャーナリストをしつつ、60年の『レ・タン・モデルヌ』の創刊以来、サルトルとともにその共同編集者として活動。70年代にはエコロジー運動に関わり、最近もエコロジー派の代表的論客として発言している。代表的著書に『裏切者』(58年)、『歴史の教訓』(59年)、『エコロジーと政治』(75−79年)など。ここで「盗作本」と言われているものは『労働者戦略と新(ネオ)資本主義』(64年)のことと思われる。

*15:ジョン・K・ガルブレイス(1908−)カナダ生まれの米国の経済学者。戦前、米国政府の経済機関に勤めた後、49年以降、ハーヴァード大学経済学教授。リベラルの立場から米国経済を分析。著書に『アメリカ資本主義』(58年)、『新しい産業国家』(67年)、『不確実性の時代』(77年)など。

*16:ユマニテ』紙 1904年創刊のフランス共産党の機関紙。

*17:クロード・カダール フランスのジャーナリスト。著書に『中国での共産主義の高揚』(共著、83年)、『中国の戦略、あるいは龍の脱皮』(中島嶺雄との共著、86年)など。

*18:レーモン・ボルド フランスの映画批評家。元フランス共産党員で、50年代から60年代にかけて、反体制派の映画雑誌でシュルレアリストが多く協力した『ポジティフ』に参加した。著書に『アメリカのフィルム・ノワール・パノラマ』(79年)、『シネマテーク』(88年)など。

*19:ティトー(本名ジョシッブ・ブローズ 1892−1980年) ユーゴスラヴィアの政治家、1920年来の共産党員で、37年に党書記長となり、第二次大戦中、民族解放軍・パルチザンの最高司令官として活躍し、戦後、首相・国防相などを経て、53年から大統領。スターリンに屈せず独自の社会主義路線を推進した。

*20:エウジェニー・アレクサンドロヴィッチ・エフトゥシェンコ(1933−) ソ連の詩人。1954年から63年にかけての雪解けの時代に、スターリニズムと大ロシア主義、官僚主義を批判し、ヒユーマ二スムを擁護する詩を発表し、ソ連の若い知識人の間で持てはやされた市民性、国際性を信条とし、特にキューバ革命に賛辞を捧げ、数回にわたってキューバを訪れ叙事詩『わたしはキューバ(63年)を発表、映画化された。これらの作品はロシア当局から自己過信、軽率という批判を浴び、63年にパリで出版した『早すぎる自叙伝』が、64年の文芸粛正によって槍玉に挙げられたが、生き延びて70年代から80年代に多くの作品を書き、86年以降のペレストロイカの中で積極的発言を行い、パステルナークの復権などに尽力した。詩集に『未来の偵察隊』(52年)、『ジマー駅』(56年)、『バービー・ヤール』(61年)など。

*21:ヨシフ・アレクサンドロヴィチ・ブロツキー(1940−96年) ロシアの詩人、15歳で学校に行くことを拒否し、独学で幅広い文学的教養を身につけた。ポーランド現代詩やジョン・ダン、オーデンなどの英米詩に傾倒し、58年頃から詩を書き始めるが、63年12月に「徒食者」として逮捕され、強制労働5年の判決を受け、北部ロシアの僻村に流刑となるが、ロシアの作家たちや西側の抗議によって1年半後に釈放。72年には国外退去処分により米国に亡命、マウント・ホーリヨーク・カレッジで文学を教えつつ詩を書いた。その詩風は、社会主義レアリズムとは無縁のもので、ロシア詩の伝統上まれな「形而上詩人」と評される。87年ノーベル文学賞受賞。詩集に『荒野の停留所』(70年)、『美しい時代の終焉』(77年)など、戯曲に『大理石』(84年刊)など。

*22:ポラリスを搭載したアメリカの原子力潜水艦隊の日本への寄港 1963年1月9日、ライシャワー註日米大使が大平外相に原潜の日本寄港を承認するよう申し入れ、4月26日池田首相が衆院本会議で米原潜に便宜を与えるのは日米安保条約上当然のことと笞弁したことに端を発し、全国で抗議行動がまき上がった。

*23:高木徹 中核派革マル派に分裂する以前からの革命的共産主義者同盟の指導者として有名だが、詳細は不明。

*24:『前進』(国際版)誌 革敵的共産主義者同盟の機関紙。

*25:ピエール・ムレレ(?−1968年) コンゴの左翼ゲリラ指導者。1960年に始まったコンゴ動乱は、カタンガ分離独立系のチョンベが国連軍の攻撃の前に分離の終結を宣言して、63年1月に一応の幕を閉じたが、翌64年6月の国連軍引き上げ前後から、ムレレやグベニエら旧ルムンバ派の流れをくむ指導者たちのもとで反政府ゲリラ闘争が開始された。61年から63年にかけて中国に滞在、毛沢東思想の影響を受け、ゲリラ戦術を学んだムレレも、そうした指導者の1人で、63年以降、クウィール州にゲリラ基地をもうけ、64年から反政府武装闘争を開始した。この左派ゲリラの闘争は、一時キンドゥやスタンレーヴィルを陥落させ、多くの地域を支配したが、チョンベの復帰による政府車の建て直しによって65年には鎮圧された。

*26:パトリス・ルムンバ(1925−61年) コンゴの革命家。58年コンゴ民族運動を組織し、同年12月、ガーナのアクラで第1回全アフリカ人民会議に出席、帰国報告会がレオポルドヴィル暴動のきっかけとなる。60年1月ブリュッセル円卓会議に出席、コンゴ代表団を率いて独立を勝ち取る。同年6月、初代大統領となるが、ベルギーの再侵攻と米国を背景としたカサヴブ、モブツらのクーデタて失脚。12月も物に逮捕され翌月虐殺された。

*27:『オブザーバー』誌 ロンドンの日曜新聞。1791年刊。

*28:「シンバ」 64年のコンゴでの旧ルムンバ派左翼ゲリラ勢力の攻勢のなかで、ゲリラ兵士たちが呼ばれた呼称で「ライオン」の意味。彼らは、ゲリラに加盟するに際して胸部と前額部に傷を付け、「ルムンバの水」と呼ばれる水で洗礼を受ける魔術的な儀式を行い、不死身になったと信じて闘った。

*29:Y­=G・べルジェス フランスのジャーナリスト。著書に『今日のブラジル』(80年)、『タイランド』(80年)など。

*30:アラン・レネ(1922−) フランスの映画監督。カットバックやオフの声を多用した実験的な作品『ヒロシマ、わが愛』(邦題『24時間の情事』、脚本マルグリット・デュラス、59年)でカンヌ映画祭国際批評家賞を取り、大きな反響を得る。ヌーヴオー・ロマンの作家ロブ=グリエの脚本を映画化した『去年マリエンバートで』(61年)は、ベルリン映画祭で金獅子賞を獲得し反響を読んだが、現在と過去、現実と幻想を錯綜させるその手法はレネ独自のものと言うよりもロブ=グリエのアイディアに負うところが大きかった。

*31:アラン・ロブ=グリエ(1922−) フランスの小説家。『消しゴム』(1953年)、『覗く人』(55年)などの小説によって、ヌ−ヴォー・ロマンの騎手とされる。アラン・レネ監督の映画『去年マリエンバートで』(61年)の脚本、自らが監督した映画『不滅の女』(63年)によって映画にも手を染めた。

*32:『マリエンバート』 アラン・レネ監督、ロブ=グリエ脚本、デルフィーヌ・セイリグ、ジョルジュ・アルベルタツィ出演の映画『去年マリエンバートで』(61年、94分)のこと。広大な城館で出会った男女をモチーフに、現在と過去、現実と幻想を交錯させながら、人間の意識の深層を描き出す。

*33:『不滅の女』 ロブ=グリエ監督、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、フランソワーズ・ブリオン出演のフランス映画。1963年、100分。イスタンブールで男が女に出会い、一緒に街を訪ね歩くが、ある日、女が突然姿を消す。男は彼女を探して術中を歩き、最後に、女は幽霊のようにして再び姿を現すという物語が幻想を交えて描かれる。

*34:ハリー・ディクソン オランダ生まれでフランス語で書いた小説家シャン・レイ(1887−1964年)の1930年発表の探偵小説『ハリー・ディクソンの冒険』の主人公。探偵のハリー・ディクソンが見習い探偵のトム・ウィリスとともに、さますまな怪奇事件に巻き込まれ次々と解決するという内容で、100篇ほどから成る連作小説の形式を採っている。アラン・レネは60年代に、この小説を映画化する計画をたて、脚本まで書いたが、資金難などのため実現しなかった。

*35:ファントマ フランスの大衆小説家マルセル・アラン(1885−1969年)とピエール・スーヴェストル(1874−1914年)が最初(11−13年)は共同で、後者の死後はアラン単独で(19−63年)発表した連載物の冒険小説の主人公。ファントマは何度も漫画化・映画化され、フランスの国民的ヒーローになった。

*36:ロカンボル フランスの大衆小説家ポンソン・デュ・テラーユ(1829−71年)が59年から84年にかけてさまざまな新聞に連載した小説(『パリのドラマ』として84年に1冊にまとめられた)の登場人物で、第2帝政期のパリを闊歩して、冒険を行い、大衆の人気を博した。『ファントマ』などの大衆小説の原型となったことでも知られる。

*37:『ジュテーム・ジュテーム』 アラン・レネ監督、ジャック・ステルンベルグ脚本、クロード・リック、オルガ・ジョルジュ=ピコ出演のSF映画。68年、91分。自殺を試みたが失敗して生き返った女性クロードは、生死の間をさまよったその経験が時間旅行に格好の人間だとして科学者の実験台となり、タイムマシーンに乗ることを引き受ける。1年前にタイムトラベルするはずが、機械の故障で、クロードは過去のさまざまな時点をさまようことになる。

*38:ジャック・ステルンベルグ(1923−) ベルギー生まれのフランスの大衆小説家。ユーモア小説やSF小説も書いた。作品に『完全なる商業秘書マニュアル』(60年)、『不可能における幾何学』(60年)、『ある平日』(61年)など。