われわれの語る世界2

訳者改題


不在とその飾り付け役(続)

 現代美術の運動はすべてを無に、沈黙に還元する方向に向かって歩んできたが、それと同時に、この解体の産物はますます多く利用され、いたるところに陳列され、「伝達され(コミュニケ)」ねばならない。というのも、この運動は社会のいたるところに実際に打ち立てられてきた非−コミュニケーションを表現していた──そしてそれと闘っていた──からにほかならない。生の空虚は、今や文化の空虚で飾られなければならないのである。あらゆる既存の販売方法を用いて、人々はそうすることに精魂を傾けている。それらの販売方法は、他のほとんどどんな場所でも同様に、半−空虚を売りさばくのに用いられている。そのためには、すべてを無の満ち足りた肯定性──無は、それが存在する、すなわち、スペクタクルのなかで認められているという唯一の事実によって同語反復的に正当化されている──に還元することによって、現代美術の真の弁証法を隠す必要がある。それゆえ、新しさを喧伝されたこの芸術は、細部にいたるまで、公然たる剽窃の芸術であることに何の恥じらいもない。革新的な現代芸術と現在の世代とのあいだの本質的な違いは、〔後者が〕かつての反−スペクタクルをスペクタクルのなかに統合し、受け入れ、反復する点にある。反復に対するこうした趣向のためには、あらゆる歴史的評価を消滅させることが必要である。合衆国でネオ−ダダイスムか公認芸術になったのに対して、ダダイストのシュヴイッタース*1彼自身の時代を思い起こさせることは非難されさえするのである。さらに、転用の批判的エクリチュールさえもが、いくつかの文学的通俗化の試み──もちろん「巻末(ヴォリューム)の参考文献」付きの──を経験しようとしている。だが、今日の文化の無の量(ヴォリューム)は、まったく別の終わりを保証しているのである。

 何もないこと万歳! 先月、合衆国を熱狂の渦に巻き込んだあのアイデア商品の噂を聞きましたか。それは、何の役にも立たないのが特徴でした。四角い箱に電球がはめ込んであって、どの方向にも点灯できるようにしたこのびっくりするような物は、とっても好評で、ストックが全部売り切れ、もうどこにも見つからなくなってしまいました。でも、この「ナッシング・ボックス」、この「何もない箱」のお値段は50ドル(200フラン以上)もしたんですよ。

『エル』誌、63年2月

 戯曲の発表のたびに、とりわけ今年発見された『しあわせな日』*2の後で、ベケット*3が披を魅了している無を具象化し、沈黙に近づくため、次にどんなやり方で、手法と言葉をさらに節約できるだろうかが、みんなの話題になってきた。しかしながら、『芝居(コメディ)』*4の合本には、この際限なき削ぎ落しがもはや信じられないほどにまで進んでいることが示されている。

ル・モンド』紙、64年6月13日付

 それを知っているべきだったのです。絵の衝動買いは危険だということを。初心者にとって、それはコレクションを始める最悪の方法です。一連の心理テストがそのことを証明したばかりです。人は自分に似た絵にしか愛着を抱かないのです。フランソワ・レシャンバック*5の次の映画の主演女優マリー=フランス・ピジエ*6は、この理論を実践に移したTV番組「文化の店」で、1人の心理学者が浴びせる質問の集中砲火にさらされました。「あなたは食いしん坊ですか? 赤い服を着ますか? よく眠れますか?」等など。テストはとても説得力のあるものだったので、最初はサンジエ*7の絵に惹かれていたマリー=フランスも、出て行くときはスーラージュ*8の絵を持っていました。

『マリー=クレール』誌、1963年7月号

 日本の大彫刻家、向井*9。最も有名な彼の作品は、プレス機で圧縮されたルノー4CV。それはいま、東京のある駅を飾っている。

『エル』誌*10、63年8月9日号

 あるヴァカンス団体の指導員は、この1月のために、とても魅力的なメニューを提供している。「すべて込みで350フランで1週間の山暮らし」という ものだ。最初にこの知らせを読んだ時には、たいして驚かなかった。本当に驚くべきことは、「すべて込み」の内容である。飛行機旅行、快適な山小屋、10歳以下の子供の無料滞在、幼児の託児所を含むだけでなく、「有名人との出会い」まであるのだ。その手始めに、ル・クレジオ*11、というわけである。

ルフレ・ファーブル=リュス*12、『アール』誌*13、64年1月1日号

 団地の出現とともに、劇場建築は異なる意味を持つようになった。それは、もはや演劇の上演のためだけに作られた舞台と客席ではありえない。全体芸術が、照明技術は言うに及ばず、文学、絵画、音楽、建築まで介在させる以上、これからの劇場は、小都市の文化的催し物のすべて──演劇芸術、映画、テレビ、音楽、講演、ダンスなど──に適応した場所と見なされる。それは、ちょうど、建築家のP・ネルソン*14が詩的に「余暇の庭」と呼ぶもののようなものである。世界各地と同じように、フランスでも〈文化センター〉を建設する風潮は、これに端を発している。

ル・モンド』紙、62年10月12日付

 4年前から、全世界で数学的音楽家の世代の真の開花が見られる。わが国では、この種の研究は、政府からの実質的な援助を欠いているため、電気製品の大手メーカーに多少とも支援を受けた手間のかかる職人仕事の域を出ない。(……)
 このような情況の中で、ミシェル・フィリッポ*15の『三角形変奏曲』とピエール・バルボー*16の『ノネット・イン・フォルマ・イン・トリアンゴロ』は生まれた。バルボーはまた、映画『深淵(アビス)』*17の音楽を作曲するよう依頼を受けた。彼は、映像はまったく考慮に入れず、音楽を彼の持つガンマ60で計算した。伝統的な楽譜に書き直して演奏者に渡し、録音したのである。批評家たちはその音楽の美しさを称賛し、映画の成功に彼が大きく貢献したことを称えた。
 かくして、ガンマ60は、今この瞬間にも、何キロメートルもの和声(ハーモニー)の課題を成し遂げている。それらは高等音楽学校(コンセルヴァトワール)で作られてきた作品以上に醜いわけでも美しいわけでもないが、規則に厳密に従っているという点ではこれ以上完璧なものはない! それに、過去の作曲家の「癖」を定式化することもできるのだ。(……)
 運弓の不正確さや、現在の楽器のほとんどから出される音の不安定さもまた、機械から生まれた仮借ない論理を「実現する」には理想的ではない。この研究の成果を真の音響情報手段にするには、シンセサイザーの補完的利用がほとんど不可欠であるように思える。
 だが、「計算された」音楽が、芸術観という点でわれわれを新時代に導くことは明らかである。すでに、わが音楽研究者たちは、電子頭脳によってもたらされた最良の成果を音楽と造形芸術の両方に同時に適用することを考えている。すでに、彼らは精神の分野での人間と機械との連携(豊かなものであることを願おう)を生きている。すでに、彼らは機械が「新しい構造をよりよく思考する」肋けになることを力強く断言している。アブラハム・モール*18とともに、テクノロジーの時代が到来したことを祝福しようではないか。

『フランス=オプセルヴァトゥール』誌、64年5月21日号

 荒れ狂う聴衆。それは、先日の夜、テアトル・ド・フランスでの「ドメーヌ」のコンサートでのことだった。(……)
 次に、カールハインツ・シユトックハウゼン*19の『クラヴィアシユトック・X』が演奏されたが、同じ演奏者によるその演奏は本当の力仕事の様相を呈し、ボクシングのグローブをはめたソリストは、何ラウンドものあいだスタンウェイ〔のピアノ〕と格闘していた。ラウンドのなかにはひどく短いもの──和音を1つ、力一杯叩きつけるだけだ──も、数度におよぶ長い沈黙に隔てられているものもあったので、この『クラヴィアシュトック』は、ボクシングの試合の様子をすっかり備えたものになっていた。(……)
 とはいえ、こうした探求の果てには、本当に新しいものは何もなかった。拳で叩かれ、虐待されたピアノはどうか? それは、1926年から1928年ごろにかけての、『ルヴュ・ミュジカル』誌のコンサートですでに見られたもられたものだ。クルト・シュヴィッタースダダイスムはと言えば、それは1920年頃にトリスタン・ツァラが引き起こしたすばらしいスキャンダルを思わせるところがあった。

ル・モンド』紙、64年3月25日付

 

 このアメリカの展示は、地理的にはビエンナーレの外にある別館で行われたが、その全体が「ポップ・アート」の名で知られている反体制的なネオ−ダダの潮流に棒げられていた。それはどことなく、公式の展示の枠外にあるアメリカの祭典の観があった。

ル・モンド』紙、64年6月19日付

 私はシャン=ピエール・ファイユ*20の『アナローグ』について話すべきだということを忘れてはいない。この本は、確かに、小説を名乗ってはいないのだが……。にもかかわらず、彼がわれわれに語ろうとしているのは、1つの物語だ、複数の物語だとさえ言える。そして、私は、彼がそのテクストに過去の作家からのカムフラージュされた引用──それらの出典は巻末にしか見つからない──を散りばめていることを喜んで受け入れる。

ギー・デュムール*21

『フランス=オプセルヴァトゥール』誌、64年6月18日号


意志と表象としての都市計画

 凝縮され完成された資本主義である現代資本主義が生の舞台装置(デコール)のなかに書き込むもの、それは、これまで疎外の正の極と負の極として対立していたものを、一種の疎外の赤道〔=均衡点〕のなかに融合させるものである。そこへの強制的な居住は、ますます発展する犯罪予防的な警察によって管理される。ニュータウンは、スウェーデンのヴェリングビー*22からイスラエルのベッソル*23にいたるまで、この窒息しそうな社会の実験室である。そこでは、すべての余暇が、ただ1つしかない中心(センター)に集められることを約束されている。アビレス*24の団地は、スペインを襲っている新−資本主義の発展をただちに表現したものである。同時に、自由競争の資本主義と対になっていたかつての「都市のジャングル」──冒険においても、不快さと贅沢においても──の消滅はなおも続いている。
パリの中心部は、自動車交通の組織化によって根本的に整備された(河岸は高速道路に、ドーフィヌ広場*25は地下駐車場に変えられた)が、これと補完的に、都市のなかで孤立したいくつかの昔からの区域を、観光スペクタクルの対象や古典的博物館の単なる延長として修復し、一区域全体を歴史的建造物とする傾向もないわけではない。あらゆる種類の行政機関が、いたるところに、自分たちに合った形で自分たち用の建物を建てている。カニジーにある新しい活動のための機関もその1つだ。この機関は、その巨大さにもかかわらず、現実の欠如に対応したあらゆる詐偽──すなわち、一般化の専門家ども──が引っ張りだこになるように、市場で引っ張りだこになるかもしれない。


 それを全部買うのに、人はローンの助けを借りる。月々の支払いはしばしば大きな負担になるが、それでも支払いをする。今までなかったことだが、フランス人は、自分の住宅のためには喜んで犠牲を払うのである。パリ、マルセイユ、リール、ナント、トゥールーズ、あなたがどこに住んでいようと関係ない。それは同じように良い設備を持ち、同じ装飾を施された、同じ住宅である。事務員、石工、行政官、熟練労働者、誰の家にいようと、違いは感じられない。(……)このようにして、明るく、陽気で、一様で、あらゆる社会階層に共通の生活スタイルが押し付けられる。私か書いているのはありのままの姿であり、何の政治的解釈も付け加えようとはしていない。ただ、前世紀にはブルジョワと労働者との間は深い深淵で隔てられていたことを思い起こしておくことだけは許してもらえるだろう。(……)今日、熟練労働者の賃金は教員の給与に近づいている。そして、誰もがHLM〔=低所得者用の低家賃団地〕に住むことができる。これは良いことなのか? 悪いことなのか? その判断は読者におまかせする。しかし、平均化は、高い水準ででも低い水準ででもなく、中間の水準でなされていることは事実である。

ジャン・デュシェ*26、『エル』誌、63年5月10日号

 国際刑事警察機構(インターポール)の第32回総会が、水曜の朝、ヘルシンキの経済学大講堂で開幕した。(……)この総会の期間中には、ストックホルムに数年前からすでに存在するものに似た「犯罪予防局」を加盟各国に設立することが検討される予定である。その目的は、警察官が開発し推奨したさまざまな犯罪予防技術を建築家やエンジニア、土木技師などの専門家に自由に使わせることにある。

ル・モンド』紙、63年8月二22日付

 カニジー団地(シテ)*27。それは、頭脳市場のためには、300億フランで作られた理想的な観測場である(……)ラ・クロワ=ソリエと呼ばれる場所にある巨大な掲示板にはこう書いてある、「国際一般化センター。最初の科学的実験都市、あらゆる分野の人間の総合と一般化の場所」。これはみんな、意味論地区です」、郵便配達の男は景色を大きく抱きかかえるようにして言った。

『レクスプレス』誌、63年8月22日号


暴力に関する考察

 既存の生活条件に対する反抗は、現在いたるところで見られる。それがまだ明確な計画や組織は持っていないのは、嘘で塗り固められた欺瞞的な古い革命政治が現在もなおその場所を占めているからである。この政治が失敗した──そして、抑圧的なその反対物へと反転してしまった──のは、この政治には、受け入れられないことと可能なことを、包括的に見極めることができなかったからだ。そしてまた、この政治が、受け入れられないことと可能なこととをともに規定することもできなかった──その政治の残滓もいまだにそれを規定できないでいる──のは、その実践がことごとく失敗に帰し、嘘に変じてしまったからである。革命のプロジェクトは、過剰にそれを行うことによってしか、やり直すことはできない。それにとって必要なことは、社会の変革からすべてを要求する新しい過激主義である。コーワ・ショイタニ*28の行為は、馬鹿げたものではない。社会は、その資源をテレビ・チャンネルの発展にでも、医学研究にでも、ほかのもっと突飛な研究にでも、選んで投資することができるのだから。「眼は人間的な眼となったとともに、それの対象も1つの社会的な、人間的な対象、すなわち人間が人間のために生産した対象となった。(……)五感の形成は、過去の全歴史の作品である」(マルクス、『1844年の草稿』*29)。
 今日、スポーツとアイドルが、政治党派が結集しようとはもはや夢にも思わないほどの群衆を巣めているのは、すでにずっと以前から、政治によって集められた大衆とは、人を欺く偶像(アイドル)の前にいる受動的な観衆(スペクタトゥール)としての大衆にすぎなかったからである。だが、意味のない競争を観戦することにきっぱりと乗り移った観客たちは、そこで不満を感じている。リマでは、皮相なスペクタクルのなかでインチキがあっただけで、激しい拒否の眼を覚まさせ、華々しい(スペクタキュレール)インチキの全休を非難させるのに十分だった。このようにして、心理ドラマは、司祭たちが期待するような無知蒙昧化の機能を果たす前にきっと破産してしまうだろう。

 クラクトン*30では、不良集団は特に地域住民を、大人たちの世界を恨んでいたが、それは、無償の破壊行為(ヴァンダリズム)というかたちで表現されていた。モルゲイトとブライトン*31では、はっきりしないさまざまな理由から、彼らは互いに抗争した。(……)はっきりと言えることは、「観衆(パブリック)」──テレビのレポーターとカメラマンに始まり、予告された暴力に恐れながらも惹き付けられた立派な人人のヴァカンス客たちも忘れてはならない──の存在がその役を十分に果たしたということである。すでに指摘している人がいるように、若者たちは自らスペクタクルになって見せたのである。

ル・モンド』紙、64年5月20日付

 1年前から、トゥーロン*32の郊外に位置するセリネット地区の黒ジャンパーの不良たちは、70才の老婆、エルヴエ・コノー夫人を恐がらせることを決心していた。何年も前から未亡人で、1人暮らしの彼女は、土地の人がみな「お城」と呼ぶ、公園の真ん中にある快適な家に住んでいた。若者たちの一味の注意を引いたのは、まずその公園だった。草むらは、半ば秘密の待ち合わせや集会には都合が良かった。(……)若い不良たちは、公園を占拠した後、お城の建物に攻撃を加えた。「ある朝、わたしは、あいつらが礼拝堂をすっかり壊してしまったのに気がつきました」と、老婆は語った。実際、家のそばには、半分廃墟と化した小さな礼拝堂があったのだ。「黒ジャンパー」は、夜の間に、石を1つ1つ崩して、それを取り壊してしまったのである。

『フランス=ソワール』紙、64年5月10日付

 トゥアール*33近郊の重要な弾薬床を守っている第735弾薬補給中隊の若い兵士、ジャン=マリー・ロネー
──ドゥルー(ウール・エ・ロワール県)生まれ、21歳──は、倉庫とそこに収められている何千トンもの弾薬を爆破する計画を思いついた。シャルトルから盗難車で駆けつけるはずだった仲間が、パニックを利用して、トゥアールの中心のラヴォー広場にある相互銀行の支店の金庫に押し入ることになっていた。

ル・モンド』紙、62年1月20日付

 ここ数日で、大量の逮捕があった。カーン*34の大市。B・B〔ブリジット・バルドー〕の巡回。ラ・ゲリニエール*35とグラス=ド=デュウの一味。長距離バス発着所。いくつかの地下酒場では、少女たちがストリップをしている。未成年の非行少年少女たちは、20歳になって、重罪裁判所で再会する。(……)V…一家は、ラ・ゲリニエールの4階を占めている。3つの寝室と、台所付きの居間が1つ。V…夫人は私に部屋を見せて、こう言った。「おわかりでしょう、冷蔵庫もテレビもあって、とても快適です。でも、いつも、息子は友だちと一緒に外に出かけなくてはならなかったんです。この頃は、息子たちは市に出かけていました。息子たちが悪いことをしていたとは、思いませんでした」。

『カーン週報』、1964年4月号

 日本駐在米国大使のエドウィン・ライシャワー*36氏は、火曜日の正午頃、大使館の中庭で、19歳の日本人青年に右太股をナイフで刺された。大使は重傷を負ったが、命には別状はない。(……)日本の警察によれば、襲撃者は精神異常者で、政治的動機から行動したのではなさそうである。19歳のこの青年は、コーワ・ショイタニという名前で、東京の南西150キロに位置する沼津に住んでいる。彼は、その行為によって、眼を病んだ人々への医学的援助の不十分性に対して当局の注意を喚起したいと思ったらしい。「私は近視で、限を患っている人に国が便宜を図らないのは、アメリカの占領に起因する悪い政策のせいだ」と、この青年は警察の尋問で述べたらしい。

ル・モンド』紙、64年3月25日付

 アルジェでは、夜、ほろ酔い加減の者たちが群をなして、「酒を! 女を!」と、要求書を大声で読み上げながら、旧イスリ通りを徘徊している。

ダニエル・ゲラン*37、『コンバ』誌*38、64年1月16日付


                            

 当局は、アルジェリアの大都市の舗道上でますますその数を増やしている「非行」少年に対する一斉取締りを開始しようとしている。すでに、去る12月1日に、べン・ベラ大統領*39はこの「社会の欠陥」について示唆し、次のように叫んでいた。「われわれは、彼らの問題に取り組むつもりだ。FLN〔民族解放戦線〕は彼らを打倒するための一斉取締りを開始するだろう。彼らをサハラ砂漠のキャンプに送り込むために必要な処置を取る予定である。そこで、彼らは道路のための石を割る〔=懲罰に処せられる〕ことになるだろう」。

ル・モンド』紙、63年12月18日付

 21歳の青年リツァルド・ブショルツは、2人の仲間とともに10月12日にポーランドの首都で警官を殴り重症を負わせたかどで、土曜日にワルシャワの法廷で死刑判決を受けた。(……)同日、ブロツワフ地方〔ポーランド南西部の州〕のタデウツ・ワルカックは、商店に盗みに入っていたところを見つけた2名の警官と陸軍将校に猟銃を撃って重傷を負わせたという理由で、ジュリアン・クロルとともに死刑の判決を言い渡された。ブロツラフ在住のクロルは、身分証明書の提示を求めた1人の警官にピストルで重傷を負わせ、凶器による襲撃を理由にすでに死刑判決を受けていた。(……)これらの判決の極端なきびしさは、ポーランドで猛威をふるっている強盗行為と青少年犯罪の流行に起因するものと思われる。

ワルシャワ発AFP、63年11月18日

 ブルガリア共和国検事総長のコミュニケが伝えるところでは、3人の「残忍なフーリガン*40」が銃殺された。このコミュニケは、「ブルジョワ生活様式に魅せられた」3人の不良が犯罪を行った際の極端に残虐なやり方を強調している。

ソフィア発AFP、64年4月11日

 死者350名、重傷者800名以上。これが、昨日リマで行われたペルー対アルゼンチンのサッカー試合の結果である。この試合は、南米プレ・オリンピック・トーナメントのために聞かれたが、突如として暴動に化した。それは、国立スタジアムに集まった4万5千人の観客の前で、ウルグアイ人の審判エドゥアルド・パソス氏が、アルゼンチン・チームのモラレスの自軍ゴールに対する得点を無効としたことに端を発する。(……)観客席では序々に緊張が高まり、次第に険悪な空気になってゆく群衆の前で、審判は試合を中止する決定を下し、1対0でアルゼンチンの勝ちとなった。
 すると、数百人の観客が柵をことごとく破り、グラウンドになだれ込んだ。警察は、その勢いに圧倒されて、催涙弾を発射し、空に向けて銃を撃った。
(……)
 スタジアムの門が突然、破られたときに、真の悲劇が始まった。その時、恐ろしい勢いで人々が門に押し寄せたのだ。数千人の観客が、女性や子どもを押し倒し、踏みつけて、通りに出ようと殺到した。人間の波は通り過ぎる時にすべてを押しつぶした。車はひっくり返され、火を付けられた。スタジアムの付近の多くの建物が略奪された。タイヤエ場と「競馬クラブ」、ほかに2軒の家と3台のバスが燃やされた。(……)やがて、街の中心部では、興奮した熱狂的なファンの群れが、商店のウィンドーに投石し、車に放火し始めた。

『フランス=ソワール』紙、64年5月26日付




 

*1:クルト・シュヴィッタース(1878−1948年) ドイツのダダイストの画家・彫刻家。本書第2巻187ページの注を参照。1924年、ハノーヴァーの自宅に、釘・紙・布・廃品などの寄せ集め芸術である「メルツ芸術」を集大成した大規摸な「メルツバウ」を建設した。

*2:『しあわせな日々』 1961年9月17日、ニューヨークで初演されたベケットの戯曲。全2幕。第1幕では腰まで、第2幕では首まで円丘に埋まった50歳ぐらいの女性ウィニーと、その周囲で横たわり、あるいは四つん這いで歩きまわる60歳ぐらいの男性ウィリーとの2人の登場人物が延々と不条理な会話を交わす内容である。

*3:サミュエル・ベケット(1906−89年) アイルランド生まれのフランスの小説家・劇作家。38年以降フランスに定住し、最初は英語で、45年以降は主にフランス語で小説・戯曲を発表。代表作の小説『モロイ』(51年)と戯曲『ゴドーを待ちながら』(52年)で、ヌーヴォー・ロマン、アンチ・テアトルの先駆者とされる。69年ノーベル文学賞受賞。

*4:『芝居(コメディ)』 1963年6月14日、ドイツのウルム・ドナウでドイツ語で初演されたベケットの戯曲。壷(実は骨壷)から首だけ出した2人の女と1人の男(実は死んでいるらしい)が、それぞれ自らの過去を告白するという内容。

*5:フランソワ・レシャンバック (1922−) フランスの映画監督・カメラマン。「カメラ・アイ」になった人間と言われるほど、繊密で突飛な撮影で知られる。作品に、アメリカを旅して撮られたドキュメンタリー『突飛なアメリカ』(58−60年)、グルノーブルオリンピックの公式記録映画でピエール・ルルーシュとの共同監督作品『フランスでの13日間』(邦題『白い恋人たち』、68年)など。

*6:マリー=フランス・ピジエ(1922−) フランスの女優。レシャンバックのこの作品は、64年のピエール・グランブラとの共同監督作品『村のやさしさ──フランスの恋人たち』このことと思われる。

*7:ギュスターヴ・サンジエ(1909−84年) ベルギー生まれのフランスの抽象画家,単色の背景の上に植物的な有機体を喚起する線描的なイメージを描く。

*8:ピエール・スーラージュ(1919−) フランスの画家、キュビスムの影響を受け、カリグラフィックな刷毛さばきによる簡潔で構成的な抽象画を描く。

*9:向井 向井良吉(1918−)のことと思われる。向井良吉は画家・向井潤吉の弟で彫刻家。51年に行動美術協会会員となり、同会彫刻部創設に参加。54・55年渡仏、帰国後「今日の新人1955年展」(神奈川県立近代美術館)で新入賞を受賞,60年、集団現代彫刻に参加、前衛彫刻運動を推進した。代表作に蝋型原型から直接鋳造する独自の技法を用いた『蟻の城』(60年)など。

*10:『エル』誌 フランスの女性月刊誌

*11:シャン・マリ・ル・クレジオ(1940−) フランスの作家、小説『調書』(63年)で有名となり、以後、短編集『発熱』(65年)、物語『洪水』(66年)など次々と実験的な作品を発表している。

*12:ルフレ・ファーブル=リュス(1899−1983年) フランスのジャーナリスト・批評家。作品に『フランス日記』(62年)、『60億の昆虫』など。

*13:『アール』誌 1945年に『ボザール』誌を継いで創刊された文化週刊誌。50年代に誌面を充実させ、ルイ・ポーヴェルやジャック・ローランを次々と編集委員に迎えた。50年代末から60年代にはトリュフォーゴダールビュトールソレルスなども記事を書いたが、67年に終刊。

*14:ポール・ネルソン 米国の建築家ということ以外は不詳。

*15:ミシェル・フィリッポ(1925−) フランスの作曲家。ORTFで音響技師兼科学監督を勤めながら、同局の音楽部門の統括責任者。70年からはパリ音楽院の作曲科教授をしながら、セリー音楽を現代的に発展させた音楽を作曲している。作品に『ピアノ・ソナタ第1番』(47年)、『コンクリート音楽のエチュード第1番、第2番、第3番』(52,58,62年)など。

*16:ピエール・バルボー(1911−)フランスの作曲家。アルゴリズム音楽の提唱者で、数学的思考と技法を作曲に導入し、58年以降、コンピュータを用いた自動作曲を行う。作品に『7!』(60年)、『発見法的変奏曲』(64年)、『フレンチ・ガガク』(69年)、『ムジョーケン』(69年)など。

*17:映画『深淵(アビス)』 ニコ・パパタキス監督の1962年のフランス映画。ぶどう栽培農家で女中をする2人の姉妹は、3年前から給料を払ってもらっていなかったため、雇い主に訴えるが、雇い主の方は土地を売り払ってしまったために、姉妹は彼を殺害するという実際にあった話を元にした映画。この事件をもとにジュネが戯曲『女中たち』を書いたことでも知られる。

*18:アブラハム・モール(1920−) フランスの社会学者・サイバネティクス学者。本書326ページの記事「サイバネティックス研究者との往復書簡」および326ページの訳注を参照。

*19:力−ルハインツ・シュトックハウゼン(1928−) ドイツの作曲家。メシアン、ミヨーに師事し、ケルン放送局電子音楽スタジオでアイメルトと協力し、電子音楽の制作に取り組み、現代音楽に新しい分野を開く。その後、空間音楽の理論を展開、前衛音楽の第一人者となる。

*20:シャン=ピエール・ファイユ(1925ー) フランスの小説家・文学理論家。文学ではフォークナーの影響を受け、政治的事件を主題として意識と言語と現実の関係を追求する一連の小説を書いた。連作〈ヘクサグラム〉を構成する『通りののあいだで』(58年)、『アナローグ』(64年)、『水門』(64年)など6つの小説である。文学−言語理論ではロシア・フォルマリスムなどの影響を受け、言語と政治、語りと歴史の関係を『全体主義言語』(72年)、『物語の理論』(72年)などの重要な著作の中で解明した。ファイユは60年から64年まで雑誌『テル・ケル』の編集委員だったが、64年に」それを辞し、68年に自らの雑誌『シャンジュ』(82年終刊)を創刊した。

*21:ギー・デュムール(1921−91) フランスの批評家。代表作に『フランス文学の10年』(59年)。

*22:ヴェリングビー スウェーデン南部、ストックホルムの北西16キロ、メーラレン湖に望む衛星都市。人口的2万5千。近代的な都市計画に基づいて建設され、1954年に完成した。

*23:ベッソル イスラエル南西部、エシプトのシナイ半島との国境付近を南北に走り地中海に到るベッソル渓谷に作られた二ュータウンと思われる。ベッソル渓谷はガサ地区を横断している。

*24:アビレス スペイン北西部のビスケー湾に望む港町。人口約8万5千。元来、漁港で石炭の積出港だったが、近年、製鉄工場が発達。

*25:ドーフィヌ広場 セーヌ川に浮かぶシテ島の西の端、ボン=ヌフ橋の東に建物で囲まれた三角形の閑静な広場。

*26:ジャン・デュシェ(1915−) フランスのユーモア小説作家。代表作に『彼女と彼』、『ジュリエットに語るフランス史』など。

*27:カニジー団地(シテ) カニジーはフランス西北部ラ・マンシュ県の人口1000名以下の小村。ここに団地が作られたと思われるが詳細は不詳。

*28:コーワ・ショイタ二 1964年3月24日に駐日米国大使ライシャワーをナイフで刺した19歳の少年。このすぐ後の『ル・モンド』の記事を参照。当時の日本の新聞では、容疑者が少年で精神疾患者であったため、いくつかの新聞の第一報を除いて、名前は掲載されなかった。外国のブレスには名前が出されたが、間違ったスペルになっている 少年法の精神から、ここでそれを訂正することも、漢字を当てはめることもしないておく。

*29:マルクス、『1844年の草稿』 『1844年の経済学・哲学手稿』のこと。邦訳『マルクス・エンゲルス全集巻40巻──マルクス初期著作集』真下信一訳、大月書店、461,463ページ。

*30:ラクトン イングランド南東部エセックス州の海岸リゾート都市。

*31:ブライトン イギリス、イングランド東部、イースト・サセックス州南部の同国最大の保養都市。18世紀中頃から海岸保養地として発展し、現在では水族館や別荘、ホテル・娯楽施設が数多くある。

*32:トゥーロン フランス南部、バール県の県部の港湾都市,海軍の基地があり、海軍関係の工場・施設が多く、重工業も発達。

*33:トゥアール フランス中西部、ドゥー=セーヴル県の人口約12万の都市。

*34:力ーン フランス北西部カルヴァドス県の県都。オルヌ川河口の石炭の積出港で、重金属工業が発達。

*35:ラ・ゲリニエール フーフンス西部ヴァンデ県のノワールムーティエ島にあるリゾート村。人口約1300。

*36:エドウィン・ライシャワー(1910−90年) 米国の歴史家・政治家,東京に生まれ、39年ハーヴァード大学で博士号。42年以降、同大学で日本史を教える。61−66年、駐日大使を務めた。

*37:ダニエル・ゲラン(1904−88年) フランスの社会主義者・反植民地主義者。30年代に中東、インドシナを巡り、反植民地主義の立場を鮮明にして、社会主義労働者インターナショナル・フランス支部フランス社会党で活動。戦後は、反植民地主義の活動家として、独立アルシェリアの自主管理を唱えたり、アナキストの組織〈絶対自由主義共産主義者運動〉に参加するなどの活動をした。著書に『ファシズムと大資本』(1936年)、『第1共和政下の階級闘争』(46年)、『べン・バルカの虐殺』(75年)など。

*38:『コンバ』誌 1942年、第二次大戦占領下フランスで「レジスタンスから革命へ」の標語でレジスタンスの新聞として創刊されたが、戦後も、作家のアルベール・カミュを主幹として既存の政治の革新をめざす批評誌として発行され続けた。1974年廃刊。

*39:アハメッド・べン・ベラ大統領(1916−) アルジェリアの政治家。1954年の独立革命戦争勃発時の指導者の1人であり、56年に逮捕されフランスに監禁された。62年3月に釈放されると、暫定政府メンバー(アルジェリアの独立は同年7月)との間で激しい権力闘争を展開したが、軍隊の支持を得て政敵を追放し、同年9月アルジェリア共和国首相に就任、翌年憲法を制定して初代犬統頷に選ばれた。

*40:フーリガン 元来は、ソ連や東側諸国で、反体制、反社会的態度をとる非行少年、不良のことを言う。現在では、サッカーなどの試合で暴れる青年たちを指すことが多い。