シチュアシオニストのフロンティア

 SIとは何でないか、SIはもはやどのような領分を占めるつもりがないか(あるいは、あらゆる既存の条件に対する闘争において、単に副次的な仕方ででもそうするつもりがないか)は周知の通りだ。SIはどこへ行くのかを述べたり、シチュアシオニストの計画を積極的に特徴づけたりするのはさらに難しい。しかしながらSIの歩みの暫定的な位置をいくつか、断片的に列挙することはできる。
 階層秩序化された専門家集団はどれも、次第に現代世界の官僚制度、軍隊そして政党までをもその構成要素としてきているが、SIはそうした集団とは逆に、反専門家の反階層秩序的な団体の最も純化された形態の集団として姿を現す。このことは、いずれわかる日が来るだろう。
 シチュアシオニストによる批判と構築はあらゆるレヴェルにおいて、生の使用価値に関するものである。われわれの都市計画構想が都市計画批判であるのと同じように、また、余暇に関するわれわれの実験が実際に(分離および受動性という支配的な意味での)余暇を拒否することであるのと同じように、われわれが自らの行動の場を日常生活に設定するのは、日常生活批判───それも、「もはや願望や指摘の段階にとどまっているのではなく、現に実行に移されたラディカルな批判」(フランカン『綱領の素描』)でなければならない───が問題なのであって、日常生活に対するこのような実践的な批判は、「不可能と描いてしまった日常」において自己の乗り越えをめざすのである。
 われわれは、現代文化における異常な観念を発明したとは考えていない。みしろ、現代文化の虚無の異常さ指摘することを始めたのだと考えている。文化生産の専門家とは、最もやすやすと分離に、したがって、欠如に甘んじてしまう者たちのことである。だが、現代の社会の全体の方こそ、制御できないまでに疎外された自らの無限の能力をいかに回収するかという問題を避けて通れないのだ。
 人間の未来としての豊かさとは、物───たとえそれが、過去に属する「文化的な」物、あるいは、この過去をモデルにして繰り返された物であっても───の豊かさのことなどではなく、状況(生、生の次元)の豊かさのことである。消費のプロパガンダの現在の枠のなかで広告が行う根本的な韜晦は、さまざまな幸福感をモノ(テレビ、庭つきの動産、自動車など)、に結びつけることにある。しかも、それは、「ハイクラス」の物質的環境を何よりもまずそれらの物で構成するために、これらのモノとその他のモノとの間に保ちうる自然な絆を断ち切ることによってなされる。この押しつけられた幸福のイメージは、テロリズムに直接通じる広告の性格でもある。しかしながら、「幸福」とか、これこれの幸福の契機とかは、ある包括的な現実に依存するのであり、そこにはまさに、状況に置かれた人物──現に生きている人々と、彼らを照らし出し彼らの意味(彼らの可能性の余地)となる契機──が含まれている。広告では、モノは情熱的な仕方で、情熱をかき立てるものとして扱われる(「こんな素晴らしい車を持てば、生活はきっとどんなに変わることだろう」)。しかし、より興味を持つに値するものを扱うとなると、それが何であれ、全体の条件付けを窮地に陥れないではすまない。すなわち、広告が現実の情熱に関心を払うとき、問題なのはただスペクタクルの広告だけなのである。
 これから作るべき建築は、古い記念碑建築(モニュメント)の華々しい(スペクタキュレール)美しさへの関心から離れ、万人の参加を引き起こす位相的な(トポロジック)な組織化に資するものとならねばならない。われわれは場所恐怖症〔トポフォビー〕に賭けるだろう。そして場所愛好症〔トポフィリー〕を創造するだろうシチュアシオニストは自分を取り巻く環境も自分自身も可塑的なものとみなすのである。

 新たな建築は、古い定義を持つ情動的環境ブロック(たとえば、城)の転用によって、その最初の実習を開始できるだろう。状況を構築するためのものとして建築の中に転用を利用することは、生産物を現在の経済的・社会的組織の諸目的から引き離し、それを再投資することを意味し、未知のものを抽象的に創造する形式主義(フォルマリスム)的配慮と断絶することを意味する。既存の欲望をまず解き放ち、それを未知の成果の新たな次元において繰り広げることが肝心である。
 かくして、状況を直接用いた芸術をめざす探求は、計画された状況を構成するさまざまな出来事の力線をあらかじめ表した最初の荒削りな表記法〔心理地理学による地図や描写のこと〕によって、おそらくかなり前進したところである。参加者がどんな未知数を賭けるのか、しかも、真剣に、観客なしに、この賭け〔=遊び〕以外の目的なしに、賭けるのかを選択できるような図式、方程式が問題なのだ。これはまさしく、疎外に対する闘争において有効な武器、放蕩の情けない約束事と手を切る上でいずれにせよ格好な武器の原型〔=試作品〕である。「幸福に通じるさまざまな経路」というフーリエ的な道を再び前進しなおす最初の試みなのである。われわれとしては、幸福に関する、いかなる望ましい、あるいは、保証された形式も支持しないということを付け加えなくてはならない。そして多かれ少なかれ明確にされ完全なものにされたこれらの図表は、さまざまな出来事の計算された配置によって開示される未知なるものへと飛躍するための滑走路としてしか役立ちえないということもまた付け加えなくてはならない。これらの図表は、さらに、ブリュッセルアムステルダムで5月29、30、31の3日間に試みられた漂流実験*1の時に観察されたシチュアシオニストのカタパルト原理の応用でもある。その際、この実験で明らかになったのは、社会的空間の横断──一時的に、かつ、たとえば、功利的な口実の下に、組織された横断──の非常に強い加速化によって、主体が、その加速化の停止期に突然、漂流へと投げ出され、自らの既得速度でその漂流を駆け抜けるという効果をあげることができるということであった。全く自明なことだが、次のことを見失ってはいけない。すなわち、制約された基礎を出発点にして組み立てられる実験はどれも、実験室の規模でのみ、つまり、社会という総体の無限小の度合いでのみ行われるので、情報の点から言って、さらに、プロパガンダの点から言ってもそれなりの価値があるにもかかわらず、未来のおける生活の構築物に比して、単に規模の差だけでなく、性質の差をも示すだろうということを。しかし、この実験室は、消尽された文化領域のあらゆる創造物から遺産を受け継ぎ、そうした創造物に対する具体的な乗り越えを準備するものである。
 したがって、ここには文化の最後の前哨がある。そのむこうで、日常生活の征服がはじまるのだ。

*1:ブリュッセルアムステルダムで5月29、30、31の3日間に試みられた漂流実験 「迷宮としての世界」を参照