統一的革命綱領の定義に向けた予備作業

訳者改題

Ⅰ 資本主義、文化なき社会


 文化というものを、1つの社会が自分自身を考察し、自らのありのままの姿を直視するための道具の総体、つまり自由にできる剰余価値をどのように使うかを選択するための道具の総体、言いかえれば社会自身の再生産に直接必要なものを越える一切の組織化、と定義することができる。

 今日、あらゆる形態の資本主義社会は、結局のところ、指導者と実行者の間の──大衆レベルでの──全面的で安定した分割の上に成り立っている。文化の面で見てみると、この特徴は、「理解すること」と「実行すること」との分裂、常に加速されていく自然支配の運動を、どのような目的のためであれ、(永続的活用の基礎の上に)組織することの不可能性を意味する。
 実際のところ、資本家階級にとって、生産を支配することは、必然的に、労働の生産的行為の理解を独占することである。そこへ至るために、労働は、一方で次第に細分化され、それを行っているものに理解できないものとなってゆき、他方、特別な機関によって統一体として再構成される。しかしこの機関自体、本来の首脳部に従属している。そしてこの首脳部のみが、理論上、全体的な理解を握っているのである。なぜなら、一般的目標という形で生産に意味を押し付けるのは首脳部だからだ。しかし、この理解や目標はそれ自身、恣意性に侵されている。それらは、実践や現実的知識からさえも切り離され、だれにとっても伝達する価値などないからである。
 総体的な社会的行為は、したがって、工場、事務所、首脳部という3つのレベルに分割されている。社会の能動的で実践的な理解としての文化も、同様に3つの契機に分かれている。その統一は、社会的フローチャートが人々を閉じ込めている領域の外への絶え間ない侵犯によってのみ、すなわち非合法的で細分化されたやり方によってのみ再構成することが可能である。


 文化を構築するメカニズムは、このように、人間的行為の物象化へと帰着する。この物象化は生きているものの固定と商品輸送をモデルとした輸送を保障し、未来に対して過去の支配を確保すべく努める。
 このような文化的機能は、資本主義の絶え間ない要請と矛盾する。その要請とは、人々の賛同を獲得し、人々を閉じ込めている狭い枠組みの内部において、たえず人々に創造的行為を求めるものである。結局、資本主義的秩序はたえず自らの前に1つの新しい過去を投げ出すという条件によってしか生きることができない。このことは、あらゆる定期的な広告が、偽の新製品を売り出すことの上に成り立っている、本来の文化の部門において特に明らかである。


 このように労働は、純粋な実行へと還元される、つまり不条理なものとなる傾向がある。技術は発展するにつれて弱まり、労働は単純化し、その不条理は深まる。
 この不条理は事務所や研究所にも広がる。彼らの活動の最終目的は彼らのあずかり知らぬところ、社会全体の首脳部の属する政治領域にある。
 一方、事務所と研究所の活動が資本主義の全体的な機能に統合されるにつれ、これらの活動の回収という至上命令は、その活動に労働の資本主義的分断、すなわち細分化と序列化を導入することを余儀なくされる。そこで科学的統合の論理的問題は、中央集権の社会的問題とぶつかりあう。この変化の結果はと言えば、外見に反して、知のあらゆるレベルにおいて普遍的になった非文化なのである。科学的統合はもはや実行されず、科学は自らを理解することができない。科学は、今日の人間にとって、人と世界の関係を真に、そして実践的に解明するものではない。科学は、古い表象を破壊したのだが、それにかわる新しい表象を提示できずにいる。世界は、統一体として読み解くことが不可能になった。専門家だけが、合理性の断片をいくつか保持しているのだが、その彼らもそれを互いに伝達できないことが明らかになった。


 この状態は、いくつかの紛争を引き起こしている。たとえば技術、つまり物質的プロセスの発展に固有の論理(さらに広く科学の発展に固有の論理)と、労働者を搾取し、彼らの反抗の裏をかく必要によって厳密に選ばれた応用科学であるテクノロジーとの紛争がある。資本主義的要請と、人間の基本的欲求との対立もある。また、現在の原子力に関する様々な実践と、まだかなり広く存在する生きる意欲との矛盾は、幾人かの物理学者の道徳主義的抗議にまでその反映がみられる。今後、人間が自らの自然に加えうる変形(美容整形外科から遺伝子操作まで)は、自らをコントロールする社会を必要とし、専門化された指導者の廃絶を要請する。
 あらゆるところで、新たな可能性の巨大さは、革命的な解決かSF的野蛮かという緊急の二者択一を迫る。現在の社会が提出する妥協の有効性は現状維持にかかっているのだが、その現状もたえずあらゆるところからこの社会を逃れ去ってゆくのである。


 現在の文化の総体は、いかなる行為、いかなる生の瞬間、いかなる思考や行動も、それ自身の外、もはや天国ではないとはいえ、場所を限定しようとするとさらに気がおかしくなるような、そんな他所でしか意味を持たない、という意味で疎外されれていると言えるだろう。事実、語の本来の意味でのユートピアが現代世界の生活を支配しているのである。


 資本主義は、工場から研究所に至るまで、生産活動からそれ自身にとって意味を奪い去った後、生の意味を余暇のうちにと置き換え、そこから生産活動を方向づけなおすよう努力した。支配的な道徳にとっては、生産は地獄なのだから、真の生活は消費や財の使用にあるだろう。
 しかしこの財は、たいていの場合、市場の要請を満足させるために肥大化した私的欲求を満足させる以外の何の役にも立たない。資本主義的消費は人工的な欲求を規則的に満足させることによって、欲望の減少の運動を強制する。この人工的な欲求は、たえて欲望であったためしがなく、欲求にとどまるのである。真の欲望は、非現実の段階にとどまる(もしくはスペクタクルの形で埋め合わせる)ことを余儀なくされる。道徳的かつ心理的に消費者は、現実には、市場で消費されているのである。ついで、とりわけ、この財は社会的有用性を持たない。なぜなら、社会的地平は工場によって完全にふさがれているからである。工場の外は、すべてが砂漠(ベッド・タウン、高速道路、駐車場など)に整備されている。消費の場は砂漠である。
 しかしながら、工場の中に構築された社会は、この砂漠を独占的に支配している。真の財の使用は、ステイタス・シンボルにすぎず、さらに、威光や差異を表す買われたしるしは工業製品の常としてすべての人々に対して強制的なものになる。工場は余暇においても象徴的に反復される。ただし、欲求不満のいくらかを埋め合わせるのに十分な程の転換の余地は残しているが。消費の世界は、実は、全員が全員に対してスペクタクルと化す世界なのである。つまり、すべての人々の分化と疎遠化、そして非参加の世界なのである。首脳部は社会の外部からの不条理な価値を持つ要請にしたがって自動的かつ貧しいやり方で構成されたこのスペクタクルの厳しい演出家である。(そしてこの指導者自身、生きた人間としては、演出ロボットの犠牲と考えることができる)。


 労働以外では、スペクタクルが人と人との関係を結ぶ支配的様式となる。科学的または技術的快挙から、国家元首の会見、支配的行動のタイプまで、人が社会生活の全体的な局面にかかわる──ニセの──知識を得るのはスペクタクルを通してのみである。作者と観客の関係は、指導者と実行者の基本的関係を置き換えたものにすぎない。それは物象化され、疎外された文化の必要に完璧に対応している。スペクタクルの折に打ちたてられる関係はそれ自身資本主義的秩序のゆるぎない支えなのである。あらゆる「革命的芸術」の曖昧さは、したがって、1つのスペクタクルの革命的性格はいつも、いかなるスペクタクルにもある反動的要素に覆われているという点にある。
 だからこそ資本主義社会の改良は、大部分、スペクタクル化のメカニズムの改良を意味するのである。それはもちろん複雑なメカニズムである。なぜなら、スペクタクルはまず第1に資本主義的秩序の普及者でなければならず、また大衆に対して資本主義の錯乱としては現れてはならないからだ。スペクタクルは社会的合理性に──断片的に──対応する表象の諸要素を自らにとりいれつつ観衆をまきこまねばならない。スペクタクルは、支配的秩序が満足させることを禁じている欲望をそらさなければならない。たとえば、現代の大衆的観光旅行は、街や風景をみせるが、それはそのような(人間的または自然の)場所に住んでみたいという真正の欲求を満足させるのではなく、風景を、表面的ですばやいスペクタクルとして人々に与える(そして結局のところこれらのスペクタクルの思い出を社会的価値として利用するのが目的なのである)。ストリップは、単なるスペクタクルに堕落したエロティシスムの最もはっきりした形態である。


 芸術の変化と保存はこの力線によって制御されてきた。一方の極においては、芸術は無条件に民衆操作の手段として資本主義にとりこまれた。もう一方の極においては、永続的で特権的な譲歩の恩恵を主本主義から受けてきた。つまり、他のすべての活動の阻害に対するアリバイとしての純粋な創造的活動となる(これは実際最も高価なステイタス・シンボルである)という譲歩である。しかし同時に、「自由な創造的活動」にとっておかれる領域とは、生の根源的な使用やコミュニケーションの問題がその最も豊かな形で提起される実質上唯一の場なのである。公に強制される生きる理由に賛同するものと反対する者とが、ここ芸術において対立する。確立されたナンセンスと分離には、伝統的な芸術的方法の全面的な危機が対応する。この危機は、生の他の使い方の実験もしくは実験の要請と結びついている。革命的芸術家とは介入を呼びかける者であり、また、スペクタクルを擾乱し破壊するために自らスペクタクルに介入した者のことである。



Ⅱ 革命的政治と文化


 革命運動とは、社会生活のあらゆる局面における実質的支配と断固とした変革のためのプロレタリアートの闘争以外の何物でもない。それは、まず第1に、すべてを直接的に決定する労働者による生産の管理と労働の指導をめざす。このような変革は直ちに労働の性質の根源的な変化と労働者の機械に対する支配を保証することをめざす新しいテクノロジーの構成とをもたらす、それはまさに労働の意味の転覆であり、様々な結果をもたらすのだが、中でも重要なのは、おそらく、生活の中心的関心が、受動的な余暇から新しいタイプの生産的活動に移ることであろう。これは、一夜にしてすべての生産活動がそれ自体非常に面白いものになることを意味はしない。しかし、生産労働の目的と方法をたえず、また、全面的に転換することによって、労働を興味津々たるものにするべく働くことは、ともあれ、自由な社会の最小限の情熱となることだろう。


 このようなプログラムは、人々に、自らの生を自ら建設すること以外のいかなる生きる理由も提供しない。それは、人間が現実の必要(飢えなど)から客観的に解放されることのみならず、とりわけ、彼らが欲望を――現在の埋め合わせにかえて――自らの前に駆り立て始めることを想定する。人間は他人から命令されるあらゆる行為を拒否し、常に、独自の達成の再創造をめざす。もはや、生を、ある平衡状態を保つことであるとみなさなくなり、自分達の行為を無限に豊かにしていくことを熱望する。



 このような要求の基盤は、今日、いかなるユートピアでもない。その基盤とはまず第1に、あらゆるレヴェルにおけるプロレタリアートの闘争であり、支配的だが不安定な社会が、たえずありとあらゆる方法で闘わねばならない様々な形式のあからさまな拒否や、深い無関心なのである。それはまた、そこまでラディカルではない変革の試みが全て本質的に失敗してきたことから得られる教訓でもある。さらに、(訓練効果の薄い)若者達や、今日では幾人かの芸術家のあいだにも見られる、ある種の極端な振舞いの中に明らかになりつつある要請でもある。
 しかしこの基盤はユートピアという面も持っている。つまり実現の条件が直ちに整うかどうかという点を無視した、現在の諸問題に対する解答の発明および実験としてのユートピアである。(現在の科学はすでにユートピア的実験を積極的に使用していることを指摘しておかなければならない)。この一時的、歴史的ユートピアはもっともなものであり、必要でもある。なぜなら、欲望の噴出が始まるのはユートピアにおいてであり、それなしには自由な生活も中身が空になってしまうだろう。ユートピアは、革命的階級が醒めた目で今存在している使用法と可能な自由とを発見するために、日常生活の現在のイデオロギー、つまり日常的な抑圧の関係を解体する必要性と不可分である。
 しかしながら、ユートピアの実践は、それが革命闘争の実践と結び付く場合にしか意味をなさない。革命闘争もまた、こうしたユートピアなしですませるならば不毛におちいってしまう。実験的文化の探求者は、革命運動の勝利なしにその文化の実現を望むことはできない。また、革命運動自身、日常生活批判とその自由な再構築のための文化的前衛の努力をとりあげることなくしては真正の革命的諸条件を確立することはできないだろう。


 革命的政治はしたがって、社会的諸問題の全体を内容として含んでいることになる。その形式は資本主義的秩序に対する組織された闘いを通した、自由な生活の実験的実践である。こうして革命運動はそれ自体実験的運動とならねばならない。この運動が存在するところでは、今から、1つの革命的ミクロ社会の問題をできる限り深く展開し解決しなければならない。この総合的政治は、革命的行動の瞬間において、大衆が歴史をつくるために突然介入し、自分達の行為を、直接的実験、そして祝祭として発見する時に絶頂に達する。大衆はその時、日常生活の意識的で集団的な建設を企て、それはいつか、もはや何者によっても止められなくなるだろう。

1960年7月20日   

P・カンジュエール、G=E・ドゥボール