『 文明人への勧告 ──一般化された自主管理に関連して』 訳者解題

 先のルネ・リーゼルの「定義」と同様に、ラウル・ヴァネーゲムのこのテーゼもまた、68年5月革命の「占拠運動」が切り開いた新しい地平を「評議会」創設の方向に押し広げることを目的として書かれたものだが、リーゼルの「定義」がどちらかと言えば「評議会」を追求する 「評議会主義組織」の性格に重点を置いて書かれていたのに対して、ヴァネーゲムのテーゼは結成されるべき「評議会」の理念と内実を具体的に提示するものとしてある「一般化された自主管理」( autogestion generalisée )と呼ばれるものがその内容だが、「一般化された」──あるいは「全面化された」──と形容されるのは、それが「生産」と「生産関係」の変革だけを目的としたものではなく、何よりもまず「日常生活の革命」を通して「生」の全体性を解放することをめざしたものだからである。こうした考えは、数ある「評議会」潮流のなかでもSIが最も強く主張したもので、その下には次のようなSIの結成以来の鋭い認識がある。すなわち、現代の「スペクタクル= 商品」社会のプロレタリアートの疎外状況は、「生産」の場だけではなく「日常生活」のあらゆる場に浸透しているがゆえに、それを打ち破るには、「労働」の意味を変革するだけでは決定的に不十分であり、むしろ「労働」そのものを拒否し、「遊び」や「祭り」が支配する「遊戯的行動」を生活のあらゆる場面で恒常的に実践することによって、「労働」と「余暇」、 「私生活」と「公的生活」などの「生」の「分離」を乗り越える必要があるというものである。この「労働」の拒否と「遊び」の肯定という点において、SIの「評議会」は他のいかなる「評議会」潮流の主張とも──質的に──異なるものとなっている。
 ヴァネーゲムのこのテーゼでも、このことは、「さまざまな疎外の総体と闘っているプロレタリアート」(テーゼ 5)の「生の快楽の即時の上昇」 (テーゼ 10)と「欲望の集団的政治」(テーゼ 8)の必要として強調され、「商品論理」ではなく「欲望の社会の論理」(テーゼ 17)に従った実践とし て称揚される。テーゼ 12でヴァネーゲムが例示する「いくつかの可能性」もまた、「生産」と「分配」の労働者による管理という狭い意味の「自主管理」の枠を破る、非合法な楽しさと、創造の力をかき立てる魅力に富んだ戦術である。工場の生産物を「友人や革命家」に提供したり、工場の機械を自らの目的に合わせて使い、送信機や玩具、武器、装身具など自分たちの「欲望」に見合った「贈物となる部品」を生産したりする、「横領」すなわち「転用 détournement」の実践による「交換法則の粉砕」と「賃金制度の終焉」。大商店の商品の「部分的」ないしは「無差別的」配給による、即座の「共産主義」とも言うべき「無償制の支配」の開始。家賃や税金、ローンや運賃などの「支払いスト」の実践による「貨幣の機能の低下」。労働者だけの管理下での生産部門と供給部門の操業によって「万人の創造性を活性化」させる実験。既存の「経営側の組合」の幹部を軽蔑する行動によって「位階制の精神」を捨て去り、極左主義の諸党派に染みついた「闘争至上主義」を拒否することで「犠牲の精神」を一掃すること。ビラやポスターや歌を作ることで、自分たちの「直接的コミュニケーション」を実現し、「実践」と「理論」の弁証法的練り上げを図ること。これらの 実力行使を伴う創意に満ちた戦術は実際に、シチュアシオニストが1950年代から多かれ少なかれ──個人的あるいは集団的に実践し、68年以降、フランスやイタリアを始め、世界中の反体制運動の中でかなり一般化したものである。「革命」を遠い彼方の事業として考えるのではなく、 現在の体制下での技術と芸術の「転用」による、今ここでの「状況の構築」の実践と考えるSIの戦略が、いかに時代に先駆けていたかの証明だろう。
 ヴァネーゲムは、こうした、いわば即時的な実践に加えて、「評議会」 組織の構成として、最高権を有する総会が選出する各「セクション」(テーぜ 16)、それらのセクションを通して評議会が行うべき「政策」(テーゼ 17)についても述べている。人々の行動単位であるセクションについては、「設備セクション」、「情報セクション」、「調整セクション」、「自己防衛セクション」の4つが挙げられているが、このうち「調整セクション」が最も重要である。ヴァネーゲムが提唱するこのセクションの活動には、評議会の各構成員の「相互主観的関係」を豊かにし、「情念」を満足させるための要求を引き受けて、多種多様な「個人的欲望」と「実験や冒険」を実現するための物質的材料を提供し、洗濯や育児、教育や料理といった、現代の社会では非生産的とされる労働を、「遊戯的に組織された当番制の雑役」として、誰もが自分の欲望と追求し創造性を発揮できる活動に転換して、それらの活動の調和をはかることなどがあるが、それらはいずれも、 既存の「労働」と「商品」を「人間的」なものにすることなどではなく、「労働」と「商品」そのものが破棄された後の人間が自らの「欲望」と「情念」を十全に発現させることに主眼が置かれている。
 さらに、評議会の政策も、当初は「労働時間の短縮」と「隷属労働の最大限の縮減」を最優先し、自主管理によって不要となる「行政」や「純然たる商品産業」、評議会のメンバーの直接的コミュニケーションを疎外する「スペクタクル産業」などは「寄生的部門」として廃止しつつ、歴史の構築に必要な物質的設備に関わる業種だけを「優先部門」として残すが、 最終的には「必要労働」が「対自的な〈歴史〉の快楽」の中に消滅することをめざしている。
 「欲望」と「情念」、「快楽」を最重視するこうした活動は、シャルル・フーリエ*1の夢想した理想社会「ファランジュ」での活動の現代的な転用であるとも言えるだろう。フーリエこそは、愛から多形性欲、美食から食欲、美的欲求から奢侈の欲望まで、豊穣で多様な人間の「情念」のすべてを肯定し、この「情念引力」の法則に基づいて文明の──とりわけ商業の害毒を批判し、人々の「情念」が自由に活動しうる「ファランジュ」 と名づけた共同所有制の普遍的調和社会を構想した人物だからである。実際、ヴァネーゲムは、先に述べた「調整セクション」の活動のなかに「フーリエ主義的なプロジェクトを徹底」することを入れているし、この論文のタイトルからして、フーリエの『四運動の理論』の「補遺」の最後に緊急かつ重要な提言として収められた「文明人への勧告──来るべき社会的転身に関連して」の「来るべき社会的転身」という言葉を「一般化された自主管理」に置き換えただけの転用で、エピグラフには、文字通りフーリエのこの提言の一部──「将来の善」のために「現在の善」を犠牲にせず、現在の「情念」を即座に満たす「享楽」の必要性の訴えが引用されている。ヴァネーゲムはSIの中でもとりわけフーリエ主義的色彩の濃い人物で、従来から、例えば「SIは、サド、フーリエルイス・キャロルロートレアモンシュルレアリスムレトリスムを経由する異議申し立ての線上に位置する」(「当たり前の基礎事実(2)」テーゼ 27、本書第4巻128頁)と述べたり、SIが行うべき考察のリストの中には、「労働者評議会」のすぐ前に「シャルル・フーリエ礼讃」と明記したりしていた (「問題提起も問題性もなきいくつかの理論的問題について」、本書第5巻116頁)。しかし、フーリエの「ファランジュ」が「農業協同組合」を基調とし、「労働」そのものを否定するのではなく、あくまでも工業から農業へと「労働」の意味を転換するものにすぎず、それを担う主体は「ファランジュ」に住む「定住者」であるのに対して、ヴァネーゲムの「評議会」は、「自然」ではなく「都市」を、「労働」ではなく「遊び」を、「定住」ではなく「放浪」を重視する。それは、ヴァネーゲムの「評議会」の なかに、「地区評議会」、「都市評議会」、「国際評議会」などは存在するが、 生産単位だけからなる「工場評議会」あるいは「農場評議会」などが存在しないこと(テーゼ 9)、また、初期の評議会が労働者によって担われるとしても、それから「同業組合的」側面をなくすために、「女性」、「地区の住民」、外部からの「ボランティア」などにその評議会を解放し、「地区評議会」に編成し直す必要があること(テーゼ 2)を明記していることからもうかがわれる。
 このような「評議会」はユートピアだろうか? 現代の都市の中で生きる人間が、「労働」を基準としてではなく「日常生活」を営む場を基準に結集し、自らの欲望の力を創造性の行使へと変形しつつ、ラディカルな民主主義によってすべてを決定することは、むしろ、国家が住民の多様な欲望に答えられず、また、国境を越える経済のカオス化やさまざまな形で噴出する暴力を制御できなくなる一方で、住民に対してはますます暴力的でスペクタクル化された抑圧装置として姿を現しつつある現在においてこそ、国家に代わる「秩序」としてその必要性が増大しているのではないだろうか。ヴァネーゲムは、「評議会」こそが、「社会の分解、略奪、テロリズム、抑圧」に対抗し、「国家の解体に向き合う秩序」であると明確に述べている。つまり、「評議会」による「配分の組織化と商品の終焉」こそが「略奪」を阻止し、「集団的な創造性」が「機械」を手中に収めることこそが「生産のサボタージュ」を阻止し、「日常生活の集団的構築によるプロレタリアートの終焉」こそが「怒りと暴力の爆発」を防止するのである(テーぜ 17)。さらにまた、「一般化された自主管理」が備えるべき「可能なものの法典」として、「新しい人権」の名でヴァネーゲムが最後に挙げている権利──「各自が意のままに生き、家を建て、 ありとあらゆる集会に参加し、武装し、放浪の民として生き、自分の意見を公表し──誰もが自分の壁新聞を持つ──、惜しみなく愛する権利、 出会いの権利、自分の欲望の実現に必要な物質的備えを持つ権利、創造への権利、自然を征服する権利、時間=商品の終焉、即自的歴史の終焉、芸術の、そして想像的なものの実現、等々」(テーゼ 21)──これらの権利はどれをとっても、自由な生の権利を奪われ、居住の権利を奪われ、武装の権利を国家に奪われ、移動の自由を奪われ、コミュニケーションの権利を奪われ、愛する権利を奪われ、出会いの場と機会を奪われ、欲望のための物質的基盤を奪われ、創造の権利を奪われ、自然を奪われ、商品としての時間以外の時間を奪われ、歴史を自覚的に創出する権利を奪われ、想像的なものと芸術の実現の機会を奪われ、要するにすべてを奪われた現代のわれわれにとってこそ、積極的な意味を持つ提案であり、これらの新しい人権を、国家に反して、今ここで実現する必要がいっそう増していると言えるだろう。」
 
>本文へ

*1: シャルル・フーリエ (1772-1837年)フランスの空想的社会主義者。 商人としてフランスの諸都市を巡り、資本主義の現実を観察する中で、独学で「ファランジュ」と名づけたユートピア未来社会を構想した。人間の本能を12に分類、それを伸ばす調和的世界を理想とし、それに反する文明を悪として、物質的・有機的・動物的・社会的の「四運動理論」を社会的運動法則として発見した。その考えは、フランスの社会主義運動・協同組合運動に影響を与えた。著書に「四運動の理論』(1808年)、 『産業的・社会的新世界』(22年)など。引用は、『四運動の理論』(厳谷國士訳、 現代思潮社、下巻所収、198頁)。