1つの時代の始まり その1

 「われわれは政治革命を体験するまで生きているだろうですって? このようなドイツ人たちの同時代人であるわれわれが? 私の友よ、あなたはあなたが願わしいと思っていることを信じておられる」と、アルノルト・ルーゲ((アルノルト・ルーゲ(1802-80年) ヘーゲル左派に属するドイツの哲学者。 学生運動に参加し、逮捕投獄されたが、 その後、ハレ大学私講師となり、『ハレ年誌』(1838-43年)を刊行、ヘーゲル国家論やプロイセン絶対主義を批判。44年、パリでマルクスと2人の共同編集による『独仏年誌』──その第 1-2号合併号にはマルクスの「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル法哲学批判序説」が掲載された──を刊行したが、 その後マルクスと別れ、48年革命期にはフランクフルトとベルリンで民主主義派の代表として活躍、革命敗北後イギリスに亡命。晩年は国家主義に転向し、ビスマルクを弁護し、ドイツ統一に尽くした。))マルクスに宛てて1844年3月に書き送った。すると、その4年後に 革命が勃発した。歴史的無意識は、似たような原因によって常により豊かに養われながら、いつの時代にも同じ結果を引き起こすものだが、そのような歴史的無意識のおもしろい例として、ルーゲの運の悪い文章は、1967年12月に刊行された「スペクタクルの社会」((『スペクタクルの社会』  ギー・ドゥボールの著書。1967年10月発行の『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」』誌 第11号に、その第1章「完成された分離」が発表され、12月にパリのビュシェ = シャステル出版社から全体が刊行 された。邦訳、木下誠訳、平凡社、193頁。))エピグラフとして引用された。すると、その6ヵ月後に、占拠の運動が起こった。
 それは、パリ・コミューン以来フランスで起こった最大の革命的瞬間だった。
それは先進工業国の経済を麻痺させた歴史上最大のゼネストであり、歴史上最初の自然発生的なゼネストだった。革命的占拠が相次ぎ、直接民主制の萌芽が現れ、2週間近くの間、国家権力は次第に完全に消滅していった。現代の革命理論全体が検証され、あちらこちらでその部分的な実現が始まりさえした。 現代プロレタリア運動──あらゆる国でその完成した形で形成されつつある──の最も重要な体験であり、これ以後は乗り越えねばならないモデルとなった。以上が、1968年5月にフランスで起きた運動の要点であり、これはすでにその勝利である。
 この運動の弱点と欠陥、それは過去の重荷のようにして無知とその場しのぎが横行した当然の帰結であり、それが、この運動の最もよく確立されえたまさにその場所で行われたのである。それはまたとりわけ、資本主義秩序の維持のために連合した全勢力がやっとのことで防衛することに成功したさまざまな分離の帰結だが、そのために政治的ー組合的官僚体制の幹部たちはシステムの生死のかかった瞬間に警察よりも大々的にかつ巧妙に専念した。これらの弱点と欠点については後で述べることにして、まず、占拠運動の明白な特徴を、その中心があった場において、すなわち、その内容を言葉と行動に最も自由に表すことのできた所において、挙げていこう。この運動はその場所で、歴史上の他のいかなる自発的な革命運動よりもはるかに明確にその目標を宣言したが、それらは、過去の革命組織がその最盛期に綱領の中で公表することのできたどの ような目的よりもラディカルで今日的な目標だったのである。
 占拠運動とは、歴史的な階級としてのプロレタリアート現代社会の賃金生活者の大多数にまで拡大され、階級と賃金制の実際上の廃絶へと常に向かっていたプロレタリアートの突然の回帰であった。この運動は、集団的かつ個人的な歴史の再発見、歴史に対する可能な介入の意味であり、取り消し不可能な出来事の意味であった。それは、「もはや何事も以前と同じではなくなるだろう」 という感情を伴い、人々は、自分たちが一週間前まで送っていた奇妙な生活、 今や乗り越えられた彼らの余りの生〔=生き延び〕を面白そうに見ていた。それは、あらゆる疎外、あらゆるイデオロギー、現実生活の古い組織化の総体に対する一般化された批判であり、一般化と統一化に対する情熱だった。このようなプロセスにおいて、所有は否定され、誰もが自分の家にいる〔=くつろいでい る〕ように感じていた。対話や、全面的に自由な言葉に対して認められた欲望、 真の共同体への好みは、出会いに開かれた建物や共同の闘争の中に自らの場を見出した。なおも機能していた稀有な技術手段の一つだった電話や、 パリとあらゆる国で占拠された建物や工場や集会の間を行き来する数多くの密使や旅行者たちの彷徨が、このコミュニケーションの真の機能を担っていた。占拠の運動はもちろん疎外された労働の拒絶であり、それゆえ、祭りであり、遊びであ り、人間と時間の真の存在であった。それはまた、あらゆる権威、あらゆる専門化、あらゆる位階秩序的な所有剥奪に対する拒否であり、国家に対する、それゆえ、政党や組合のみならず社会学者や教授、抑圧的な道徳や医学に対する拒否だった。運動がすさまじい勢いの連鎖の中で──壁に書かれたスローガンの1つは「急げ」とだけ言っていたが、おそらくそれは最も美しいスローガンだった──覚醒させた人々は皆、自分たちのかつての生存条件を根本的に軽蔑していたが、それゆえ、彼らをそれに繋ぎ止めようと努めていたテレビ・スターから都市計画者にいたるまでの者たちを奥底から見下していた。多くの者のスターリン主義的幻想は、カストロからサルトルまでのさまざまな甘味を付けた形態の下で引き裂かれたが、それと同様に、競合しながら連動していた一時代のあらゆる嘘が瓦礫と化した。国際的な連帯は自然発生的に再び出現し、大勢の外国人労働者が闘争に身を投じ、ヨーロッパの革命運動家たちが多数フランスに駆けつけた。多くの女性があらゆる形態の闘争に参加したことは、闘争の革命的な深さを本質的に徴付けるものである。風俗習慣の解放は大きく前進した。運動はまた、商品の批判(「消費社会」という不適切な社会学的歪曲のもとで)──それはまだ部分的に欺瞞的なところもあるが──でもあり、いまだに自らを芸術というものの歴史的否定として認めていなかった芸術(「想像力を権力に」という抽象的で貧しい表現のもとで。それはこの権力を実践に移す手段も、すべてを再発明する手段も知らなかった。それには権力が欠けていたと同時に想像力も欠けていたのである)の拒否でもあった。体制内への回収者に対しては、いたるところで怒りがあらわに示されたが、それはまだ、彼らを排除するやり方についての理論的実践的知識には達していなかった。新(ネオ)ー芸術家に新(ネオ)ー政治指導者、運動そのものによって否定されている運動の新(ネオ)ー観客(スペクタトゥール)までもが現れた。非ー生のスペクタクルに対する行動による批判が、いまだに彼らを革命的に乗り越えるものでなかったのは、五月の蜂起の「自発的に評議会主義的な」傾向が、理論的かつ組織的な意識も含めたほとんどすべての具体的な手段に先んじて進んでいたからであった。これらの手段を持ってこそ、そうした傾向は、唯一の権力として存在し、自らを権力として表現することが可能になるだろう。
 ついでながら、社会学者たちやマルクス主義の退役者たち、瓶詰めにされた古くさいウルトラ極左教条主義者たち、あるいはスペクタクルの社会を這い回るウルトラ近代主義の空論家たちによる平板な解説や偽の証言は唾棄しょう。 この運動を体験した〔=生きた〕者は誰一人として、この運動にはそうした証言がまったく含まれていなかったとは言えないだろうが。
 1966年3月にわれわれは「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」誌 第10号に次のように書いた(77頁)。「われわれの主張の多くには一見、大胆なところがあるが、われわれがあえてそう言うのは、 否定しがたいまでに重みのある歴史的証明がそれに続くことを確信しているからである」。これ以上うまい言い方はなかった。
 当然のことながら、われわれは何一つ予言していたわけではない。そこにあったことを述べたまでだ。つまり、新しい社会の物質的条件は久しい以前から生まれているということ、古い階級社会は、抑圧を大々的に近代化し、その矛盾をますます豊かに拡大しながら、いたるところで存続してきたということ、そして、敗北したプロレタリア運動はより意識的でより全面的な第二の襲撃を行うために戻って来つつあるということである。確かに、歴史と現在が白日の下にさらしていたこれら一切のことは、多くの者が頭の中で考え、口に出して言う者までいたが、それの言い方は抽象的で、それゆえ、聞く者など誰もいない所でのことだった。つまりそれには何の反響もなく、参加の可能性もなかったのだ。シチュアシオニストの功績はただ単に、現代社会における反乱の新しい適用地点──都市計画、スペクタクル、イデオロギー──を認め、それを指し示したことだけである(それらはかつての適用地点のすべてをまったく排除しないどころか、逆にそれらを甦らせるものである。この任務がラディカルなやり方で成し遂げられたがゆえに、それは、時にはいくつかの実際の反乱を引き起こすことができた。あるいは、ともあれ大幅に強化することができたのである。この反乱は、何の反響もないままではなかった。非妥協的な批判の担い手は、前時代の極左主義(ゴーシズム)の中にはごくわずかしかいなかったからだ。多くの者がわれわれの書いたことを行ったのは、われわれ以前に多くの者が体験し、そしてまたわれわれ自身も体験していた否定を本質的な仕方で書いていたからにほかならない。この1968年の春にこのように意識の光のもとに到来したものは、「スペクタクル的な社会」のあの夜の間、眠っていたものにほかならない。〈光と音の祭典(ソン・エ・リュミエール)〉は、その社会の肯定的で永遠の舞台装置(デコール)だけを見せていたのだ。そして、われわれと言えば、1962年に作成した綱領によれば、われわれは「否定的なものと共存して」いたのだ(「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」誌 第7号10頁参照のこと)。われわれの「功績」をつまびらかにするのは、称賛を受けるためではない。そうではなくて、これから同様の行動をとるであろう他の人々を、できうる限り啓蒙するためなのである。
 このような「乱戦の中での批判」に目を閉ざしていた者は皆、現代的な支配の揺るぎないカの中に己れ自身の断念だけを見ていたのだ。彼らの反ユートピア的「現実主義」が現実でなかったのは、派出所やソルボンヌといった建物が、放火犯や「カタンガ傭兵(カタンガ)」((「カタンガ傭兵(カタンガ)」  「カタンガ傭兵」と訳したこの言葉は、本来、60年代初頭、コンゴカタンガ地方で、白人植民者の権益を擁護するために分離独立を推し進めたベルギー軍に傭兵として雇われた外国人を指す言葉だったが、ここで使わている「カタンガ傭兵」とは、ソルボンヌの占拠に駆けつけて、バリケードの構築や占拠の防衛に力を発揮した浮浪者や 黒ジャンパーの不良などの「ルンペン・  プロレタリアート」をさしてマスコミが揶揄して用いた言葉で、「外人部隊」というような意味である。彼らの指導的人物が、マスコミのインタヴュで、過去にカタンガに傭兵として行ったことがあると述べたことからこの名が広まった。占拠に多大な物質的貢献をし、オデオン座占拠などにも参加した彼らは、シチュアシオニストからは評価されたが、UNE Fや新左翼党派の学生からは蔑視され、 占拠運動末期にその学生たちによって、警察に売られた。))らがそれらの建物をもとにして造るものよりも現実的であるわけではないのと同じである。全体的革命の地下に棲む亡霊たちが立ち上がり、その力を国中に広げたとき、古い世界の全勢力の方こそが、白日のもとに消えゆくはかない幻想のように見えた。簡単に言えば、革命の歴史としては全部で1ヵ月にも満たなかった30年の貧困の後に、自らのうちに30年を要約するこの五月が到来したのである。 
 われわれの欲望を現実に変えることは明確な歴史的作業であり、どのような
どのような既存の現実に対しても恒久不変の幻想を付与するような知的売春とはまったく 逆の作業である。例えば、あのルフェーヴル*1は、本誌前号(1967年10月)にすでに引き合いに出されていたが、それは彼がその著書『ひとつの立場──テクノクラートに抗して』*2(ゴンティ工書店)の中であえて断定的な結論を下していたからである。しかし、その結論の科学的という自負もまた、6ヵ月とたたないうちにその真価を露呈した。「シチュアシオニストたちが(......)提案しているのは、具体的なユートピアではなく、抽象的なユートピアなのだ。ある朝か、あるいは決定的な夕べに、人々が「もうたくさんだ!労苦も退屈ももうたくさんだ! けりをつけよう!」と、顔を見合わせながら口々に言い合い、そして永遠の祝祭に、状況の創造に入ってゆくだろうと、彼らは本気で思っているのだろうか? たとえ、それが一度、1871年3月18日*3の夜明けに起きたことがあるにせよ、そのような事態はもう二度と現れることはないだろう。」このように、ルフェーヴルは、SIのラディカルなテーゼのいくつかをこっそりと剽窃していた箇所では、いくらかなりとも知的影響力があると思われていた(本号に再録した1963年のビラ『歴史の屑かごへ』を参照)が、彼はその批判の真理をただ過去だけのものと考えていた。しかし、この批判は、ルフェーヴルの歴史学者然とした考察から生まれた以上に現在に端を発するものだったのである。彼は現在の闘争によってあのような結果を再びしうるという幻想に対して警戒していたのである。だが、アンリ・ルフェーヴルだけが、事件によって決定的に笑い者にされた元思想家だと思ってはならない。彼ほど滑稽な表現は慎んでいた者たちも、頭の中では同じようなことを考えていた。五月に受けた精神的なショックのせいで、歴史の虚無の研究家たちは口をそろえて、事件を少しでも予想していた者など一人もいなかったと認めたのである。もっとも、「甦ったボルシェヴィキ」の全セクトには特別の席を与えねばならない。彼らについて公平に言えば、彼らは過去30年間ずっと、1917年型の革命の切迫を指摘することを一瞬たりともやめたことがなかっ た。しかし、その彼らもまた完全に誤っていた。つまり、それはまったく1917年型のものではなかったし、彼らは完全にレーニンでもなかった。非トロツキストの古くさいウルトラ極左の残党について言えば、彼らには少なくとも大きな経済危機が必要だった。彼らは、あらゆる革命的契機を経済危機の再来に従属させていたので、何かが到来することなど考えてもいなかった。今になって五月に革命的な危機を認めた彼らは、1968年の春に、その目に見えない経済危機があったことを証明せねばならないのである。彼らは滑稽さをも省みず、躍起になって失業の増加と物価の上昇をもとにしてその図表を作っている。したがって、彼らにとって、経済危機とは、もはや1929年まで何度も経験され描写されたあの客観的現実、恐ろしいまでにはっきりと目に見える現実ではなく、彼らの宗教を支える一種の聖体の臨在になってしまっているのだ。
 これらの者が皆、以前にどれほどの間違いを冒したかを示すためには、「ア
 
 

*1:アンリ・ルフェーヴル(1901-91年) フランスの社会学者。1930年代にマルクス主義に接近し、58年にスターリン批判と共産党アルジェリア政策批判を軸とした雑誌『レタンセル(火花)』を発行してフランス共産党を除名されるまで、党の理論家の一人として活動。高度資本主義社会の日常生活を社会学的に研究し、正統派マルクス主義の変更を迫る大著『日常生活批判』(第1部、 1958、第2部、61年。その『序説』 は1974年に発表)や、スターリン主義を告発した『マルクス主義の当面の諸問題』(58年)により、左翼・知識人から芸術家までに大きな影響を与えた。 50年代末から60年代にかけては、雑誌『アルギュマン』に協力しつつ都市論や大衆社会論に関心を向けはじめ、シチュアシオニストとも交流、『現代への序説』、『総和と余剰』、『ひとつの立場── テクノクラートに抗して』などのなかで、頻繁SIに言及している。しかし、『コミューンの宣言』(邦題『パリ・ コミューン』)で、ドゥボールらの書いたテーゼを盗用したことをきっかけに、SIから断交を言い渡され、その後、厳しく批判されることになった。

*2:『ひとつの立場──テクノクラートに抗して』 「構造主義」を批判したアンリ・ ルフェーヴルの1967年の著作。邦訳、 白井健三郎訳、紀伊国屋書店、1970年。正式のタイトルは『ひとつの立場──テクノクラートに抗して/虚構としての人間性と縁を切ること』で、「管理された官僚主義的消費社会」とそれを支える「テクノクラート」(技術官僚)を 批判し、60年代に流行した「構造主義」 もまたこのテクノクラシー的状況と密接に関わるものとして批判、これに日常性 の変革というマルクス主義的実践を対置 した。SIについての言及は、こうした「実践」の一具体例として、その第1章「反ー体系」の中に出てくる(邦訳、 270-271頁)。

*3:1871年3月18日 この日、プロイセン軍に包囲されたパリで、パリの労働者からなる国防中央委員会の武装解除を行おうとしたティエール政府軍に対して、 パリの民衆が決起し、政府軍を追い出し国防中央委員会パリの権力を掌握した。196頁の「国防中央委員会」の注を参照。