『シュルレアリスムの苦い勝利』訳者改題

 1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ブルトン、エルンスト、バンジャマン・ペレ、アンドレ・マッソンら、シュルレアリストの多くは次々と合衆国に亡命し、大戦期のシュルレアリスムの活動はニューヨークを中心としたものとなる。ドイツ軍に占領されたフランスでは、既に1932年にコミンテルンに同調しシュルレアリストを除名されていたアラゴンや、大戦直前に再びフランス共産党に接近したエリュアール、プレヴェール、ルネ・シャールら、ブルトンから離反した者たちが対独抵抗運動(レジスタンス)に参加した。さらに、アルノー、ジャン=フランソワ・シャブラン、ドトルモンら若い世代が中心になって、ナチス占領下のヨーロッパで唯一のシュルレアリストの雑誌『ペンを持つ手』(全30号以上)を非合法で発行し、エリュアールの反戦詩「自由」やナチス禁書目録に載っていたブルトンの『黒いユーモア選集』を配布するなど、様々な形でレジスタンス活動を展開した。
 戦後のフランスでは、帰国したブルトンやペレらが、アラゴンやエリュアールらのレジスタンス派(それは、戦後の共産党の躍進によって、フランスの文化政策を隠然と支配する勢力になり、アラゴンなどは出版界に強い影響力を持った)に対し、彼らは大戦期に愛国主義的精神で古い社会秩序の防衛に働き、芸術・文化の変革という面ではむしろ後退したと、それ自体では正しい批判を行ったが、今度はブルトンら自身が、戦後の状況の中で生まれた新しい質の運動に次第に対応できなくなってゆく。シュルレアリストは、ベルギーとフランスの「革命的シュルレアリスム」(その中心は、自然消滅した『ペンを持つ手』のノエル・アルノードトルモン)やシュルレアリスム自体の革命を唱えるルーマニアの「新しいシュルレアリスム」などフランス以外の国々で発展してきた運動には冷淡で、その後のコブラやレトリストの運動には関心を示さなかった。これは、これらの運動の担い手の多くが共産党に近い立場でレジスタンス活動を行っていたということもあるが、何よりもそれらの運動が、戦後、冷戦構造が確立されていく中で、50年代の大量消費社会の到来を予感して生まれてきた新しい質の運動であり、同時に、文化領域での新しい実験を挺子にして、高度資本主義社会へ向かう戦後の社会秩序を打ち破る全体的変革をめざしたからにほかならない。つまり、戦後のシュルレアリスムが、神秘主義や相変わらずの自動運動と夢の理論に基づいた仲間内の活動に埋没し、理論的にも実践的にも1930年代のような豊かさは失い、時代の変化に対応できなくなっていたのに対して、ルーマニアの「新しいシュルレアリスム」やレトリストは、オートマティスムの内容は既存社会の無意識であり、保守的で退屈である、それゆえ「新しい欲望」を作り出さねばならないと主張し、とりわけ言語のマテリアルそのものに文字どおり唯物論的に働きかけ、レトリスト・インターナショナルは、社会生活から切り離された文化や自律した(それゆえ消費される)芸術作品を認めず、日常生活批判、都市計画批判としての漂流や心理地理学、スキャンダルといった形のない活動を自らの「芸術作品しとし、コブラもまたレトリストにならって既存の要素の転用に積極的な価値を見い出していった。シュルレアリストは、こうした新しいアヴァンギャルドの意味を理解できず、依然として戦前スタイルに固執したために、1958年には、公認の芸術ジャンルとして固定化し、完全に停滞してしまっていた。ダリやマグリットの絵は高い値段で売り買いされ、シュルレアリスム風の絵が、化粧品や広告の形で街中に氾濫し始めたのである。


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