レ・アールの心理地理学的描写の試み

訳者改題

 「事実、社会的関係はどんな些細な改良を施すにも、実に並外れた集団的エネルギーの動員を必要とする。この甚だしいギャップは、もしそれが真のすがたで大衆の意識に現れるなら、彼らを意気阻喪させてしまうことだろう。
 こうした恐るべきギャップは、達成されるべき成果を人工的に派手に誇大化することによって、大衆の意識の上では著しく軽減されるはずである。投入された努力の大きさは直接に感じられたものである以上、すでに隠しようがないが、これに十二分に見合うまでにギャップは埋められなければならない。こうした歪曲は、外部からみるとデッチ上げともいわれかねない。しかし、まさにこれこそがイデオロギーのなせる業であり、またそれゆえイデオロギーは社会進歩の不可欠な条件をなす。」

レゼック・コラコウスキ*1(『責任と歴史』)

   

 われわれの生きている世界、とりわけその物質的な舞台装置=背景は、あきらかに日増しに狭まりつつある。この世界は息が詰まりそうになっている。われわれはこうした世界の影響を深く被って、熱望によって世界に反応することをやめ、本能的に反応することしかできなくなっている。要するに、われわれはこの世界に生き方を指図され、その重圧にあえいでいるのだ。生活様式をもっと優れた水準で組織する可能性は、ただ、この世界を再整備すること、より正確にいえば、この世界を粉砕することからしか生れてこないだろう。
 シチュアシオニストは、現在自分たちが手にしている方法、および、将来のその発展をもってすれば、都市環境を再整備することばかりでなく、ほとんど意のままにそれを改変することができると考えている。今日までのところ、われわれは予算がないために、──というのは、都市計画や文化、またそれらが生におよぼす作用については何にでも興味があると言っている人々が、われわれにはほとんど援助をよこさないからで、結局はこの怠慢のために、──ほんの小規模な実験、ほとんど個人的な遊びのレベルにとどまるような実験にしか取り掛かれないできた。しかし、われわれが望んでいるのは、直接的で実効ある介入にほかならず、これは必要な予備的研究──心理地理学はここで大きな役割を果たすだろう──の後で、新しいシチュアシオニスト的な環境の創設へとわれわれを導びくことになろう。短期性と絶え間なき変化がその新しい環境の本質的特徴である。
 心理地理学とは、意識的に整備された環境かそうでないかにかかわらず、ある地理的環境が情緒的な行動に直接働きかけてくる、その正確な法則と効果についての研究である。アスガー・ヨルンの定義にしたがえば、それは都市計画のSFとして示される。
 心理地理学の方法はいろいろ沢山ある。第1の、そしてもっとも確実な方法は、実験的な漂流である。漂流は都市社会における実験的行動の一様式である。それは行動様式であると同時に認識の手段であるが、とくに心理地理学と統一的都市計画の理論のあらゆる場面に姿を現す。これ以外の方法としては、たとえば、航空写真や地図を解読すること、あるいは統計やグラフ、社会学的調査の結果を研究することなどが挙げられるが、これらは理論的研究であり、そこには実験的な漂流にみられる活動的で直接的な面はない。もっとも、これら理論的研究のおかげで、われわれは、研究しようとする環境について最初の表象を得ることができるわけである。逆にわれわれの研究の結果から、地図的な表象、知的な表象をもっと複雑で豊かなものに修正することもできるだろう。
 われわれは心理地理学研究の題材として、レ・アール地区を選択した。これは、これまでにいくつかの心理地理学的描写の対象となってきた他の地区(コントレスカルプ大陸*2やミッション・エトランジェール地域*3)とは反対に、非常に活気があり、パリ住民だけでなく、フランスに多少滞在したことのある外国人にもよく知られている地区である。
 以下、まずわれわれの考えに即してこの地区の範囲を明確にした上で、街の環境=雰囲気にしたがってこれをいくつかの特徴的な区域に分け、この地区の内外で人がいかなる方向に歩を進める傾向があるかを見ていこう。そのあとで若干の建設的提案を述べることにしたい。
 レ・アール地区は、行政区分によれば、パリ第1区の第2地区である。パリの中心に位置し、それぞれあらゆる点で相互に異なった諸地区と接している。レ・アール地区は環境=雰囲気の統一体としてみても、行政上の区画とそれほど異なっていない。主な違いは、北の方でパリ第2区にかなり大きく食い込んでいることである。われわれは次のような境界を定める。東はサン・ドニ通り、北はサン・ソヴール通りとベラン通り、北西はエロルド通りとダルグ通り、西はクロワ・デ・プティ・シャン通り、そして南はリヴォリ通り、ただしド・ラルブル・セック通り以西ではサン・トノーレ通りとなる(図1参照)。

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図1 レ・アールの環境=雰囲気の統一体

 道沿いの建物や、毎夜の激しい往来からは、レ・アールはなかなか足の踏み入れにくい地区だという印象が与えられるかもしれない。たしかに、夜間操業時には、渋滞したトラックや、積み上げられた荷籠、動力式の荷車や手押し車で行き交う労働者たちが、一般の車両の進入を妨げ、歩行者をたえず迂回させる(このため交通の反-漂流が大いに助長される)。だが、こうした見掛けにかかわらず、レ・アールは、ここに接する道やこれを縦横に貫くさまざまな道のおかげで、もつとも出入りのたやすい地区のひとつとなっている。
 4つの大通りがレ・アールを端から端まで横断しており、環境=雰囲気の上でレ・アールをいくつかの区域に分割するのに一役買っている。もっとも、これらの区域は区別されながらも、相互に通じ合っている。大通りのうちでもっとも重要なのは次のものである。東西に走るランビュトー通り、これは幾度か延長してやると、フランス銀行のある地域にまで通じている。同じく東西に走るベルジェ通り、これはランビュトー通りの南に位置する。ルーブル通りは南北に走り、レ・アール通りは南東から北西に走っている。副次的な侵入路は数多くある。たとえば、ポン・ヌフ通り、バルタール通りという一続きの通りがそうである。この通りは、ポン・ヌフをこえてセーヌ左岸に通じ、モンマルトル通りやモントルグーユ通り、また少しつながりは悪いが、チュルビゴ通りをへて北部のいろいろな地区に通じている。だが、この通りは、リヴォリ通りを横切り、中央卸売市場のいくつかの大きな建物の間を通り抜けるという、やや大きな2つの遮断物のために、あくまでも副次的なものと見なさなければならない。
 都市計画論的な意味でのレ・アールの本質的な特徴は、公道が時々刻々、種々雑多な遮断物や工作物にふさがれるため、交通経路図が一定しない点である。また環境=雰囲気の上で相互に隔たった諸区域、とはいってもそれらはきわめて似通ってはいるが、それら諸区域がすべて重なって競合している場所がある。ドゥ・ゼキュブルス・デュ・コメルス広場と商品取引所前の広場(ヴィアルム通り)とが合わさった広場がそれである。
 第1の区域は東に位置し、サン・ドニ通り、チュルビゴ通り、ピエール・レスコi通りとサン・トポルチュンヌ広場に囲まれている。これは多くの小さなカフェの立ち並ぶ売春街で、週末には、楽しみを求めて他の地区からやって来た貧しい男たちでいっぱいになる。また、デ・ジノサン広場の界隈には、いつも浮浪者が群がっている。この区域はどこも陰欝な空気で満たされている。(中略)
 サン・ドニ通りは、この区域とその東にあるサン・メリ地区、サン・タヴォワ地区との間をかなり唐突に区切っているが、この唐突な区切りもレ・アールの環境=雰囲気を作り出す一因となっている。この区切りはサン・ドニ通りのすぐ向こう側のセバストポール大通りによってさらに強められるので、通称サン・メリ台地はレ・アールの影響をあまり受けないでいる。もっとも、経済的な面での繋がり(トラックの駐車)からは、レ・アールに統合される傾向もでてくるだろう。
 第2の区域は南に位置し、リヴォリ通り、アルブル・セック通り、サン・トノーレ通り、ベルジェ通りの間に広がっている。昼間はリヴォリ通りや中央卸売市場の花市場の商売の熱気を受け、夜間も仕事の活気がたえない区域である。レ・アールの労働者が出入りするレストランやカフェは、この区域に一番多い。(中略)
 第3の区域は西(ルーブル通りとクロワ・デ・プティ・シャン通りの間)に位置し、昼も夜も静かである。ここはかなり整然とした区域で、レ・アールの活気は、その環境=雰囲気ともども、東から西へと次第に和らいでゆき、ついにはフランス銀行とヴァロア広場の前で完全に消失する。この区域は境界地帯で、近接する裕福な地区(パレ・ロワイヤル、オペラ)の前触れをなす。ここではほとんど何もかもが、レ・アールの一部にいるというよりも、むしろどこかの住宅地区にいるような感じである。ただ、ギャルリー・ヴェロ・ドダやクール・デ・フェルムのような小路(パッサージュ)が、あの動きのある環境=雰囲気を露わにし、この区域に奇妙で曖昧な性格を与えている(中略)。
 クロワ・デ・プティ・シャン通りは、環境=雰囲気上の統一体としてのレ・アールに対する接線をなす。この通りの良いところはさまざまな連結の可能性を垣問見させてくれることであるが、とくにドゥ・ゼキュ広場とヴィアルム通りからなる要衝をかすめる点で利点がある。北ではヴィクトワール広場に通じているが、この広場は国境の前哨のようなもので、レ・アールとは異質で、レ・アールに入るには遠回りになる。ヴィクトワール広場はブルジョワ地区防衛のための要塞にほからなない(これと同様の、都市計画を舞台にした階級闘争という意味では、ブリュッセルの裁判所が貧困街との境目に威圧的にそびえていることを挙げておかなければならない)。
 レ・アールの北部をなす第四区域は、この巨大な都市的複合体のなかでも、もっとも広く、とくにもっとも有名な部分である。この区域の境界線を引くと次のようになる。まずランビュトi通りと、それをサン・トゥスタシュ教会の西に延長するコキエール通りが、この区域の主要な正面(ファサド)を作っている(この道の反対側に並んでいるのが、ほかでもない、中央市場(レ・アール・サントラル)の建物群である)。東側の境界線は、まずピエール・レスコi通りに沿って進み、それからチュルビゴ通りをへてサン・ドニ通りに入る。西側はエロルド・ダルグー通りが境界になる。エチエンヌ・マルセル通り以北には境界地帯が広がっており、レ・アールの影響力は、次第に衰えてながらも、おおむね西南と北東とを結んで走るいくつかの副次的な通りをまたいで北まで伸びている。ルソー通り──ティクトンヌ通り、ハンガリー妃小路(ラ・レーヌ・ド・オングリー・パッサージユ)に続くデユ・ジュール通り、モコンセイユ通り──フランソワーズ通りなどである。この区域には、とくに貧しい住宅街があると同時に、金持ちのレ・アール観光の目玉をなすいくつもの有名なレストランがある。また食料品の小売業がたいへんな賑わいを見せているほか、いくつもの行政施設が置かれている(郵政省庁舎、フランス電力本部、モコンセイユ通り、いくつかの学校)。こうした要素は、この区域の昼の環境と夜の環境を大きく異なったものにする。夜間のこの区域は、レ・アールのブルジョワ的、伝統的意味での娯楽の特色をすべて一身に体現しているといって過言ではない。(中略)
 レ・アールの中心の競合区域、つまり、レ・アールの諸環境=雰囲気のさまざまな方向性を取り集めている要衝は、先程指摘したように、商品取引所(ブルス・デュ・コメルス)とドゥ・ゼレ・アール・サントラルキュ広場からなる複合体である。この一角は、中央市場の大きな建物が並んでいる一帯の西端に位置する。ただし、これらの建物は、連結部ではなく切断部として作用するから、ここを縦に通り抜けるカレーム通りは競合関係に無縁である。
 この要衝で交わる様々な方向性は、レ・アール内外で個人やグループがどのような道を進むという、一見自発的に見える選択に大きな影響を及ぼしている。(図2参照

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図2 レ・アールの内部の流れと外部の交通

 都市を同心円的ないくつかの区域に分けて考える理論にしたがえば、レ・アールはパリの移行区域に属している(社会的環境の悪化、異文化の受容、さまざまな住民の混清、これらはみな、文化的交流に好都合な環境である)。周知のとおり、パリの場合、こうした同心円的分割は、庶民的な色彩の強い東部と、実業と居住の両面でブルジョワ地区をなす西部との対立によってさらに複雑化する。両者の境目は、セーヌ川の南ではサン・ミシェル大通り、セーヌ川の北ではやや西にそれて、クロワ・デ・プティ・シャン通り、ノートルダム・デ・ヴィクトワール通り、およびその延長線である。レ・アールの西の境界上では、大蔵省と証券取引所(ブルス)と商品取引所(プルス・デュ・コメルス)が、フランス銀行を中心とする三角形を構成する。この小さな三角形は、そこに集中したさまざまな施設によって、実際的な意味でも象徴的な意味でも、資本主義の御屋敷町にとって防衛ラインとなっている。周知のとおり、民衆的なパリはこの百年のあいだに次第に町の外へと追いやられてきたが、現在計画されている市場(レ・アール)の郊外への移転は、この後退をさらに一歩進めることになるだろう。
 反対に、新しい社会を目指す方向での解決策は、解放された集団的生の表現のために、あくまでもこの空間をパリの中心に据えおくことを要求する。食料品取り引きの実際の仕事は減少しているが、逆にこれを利用して、「計算高いエゴイストの氷の海」のなかに自発的に現れてきた、構築の遊びや流動的都市計画といった動向の大々的な発展を促すのに用いなければなるまい。建築にかかわる第一の措置は、当然、現在の中央市場(レ・アール・サントラル)の大きな建物群を、シチュアシオニスト的な小さな建築複合体の自律的諸系列に置き換えることであろう。これらの新しい建築物の間やその周囲──これはここで検討した四つの区域に相当する──には、現在たんなる遮蔽物になっている果物籠や野菜籠よりもっと適切な物を用いて、絶えず変化する迷路を築かなければならないだろう。
 今日、ラジオ、テレビ、映画その他がもたらしている痴呆化が終りを告げた暁には、別の体制下での余暇の拡張によって、もっともっと大胆な発意が要請されるだろう。こうした問題が万人の問題になるまでパリのレ・アールが存続していたなら、レ・アールを労働者の遊戯教育のための遊園地にすることを試みなければなるまい。

アブドゥルハフィド・ハティブ*4 

 
 編集後記

 この研究は、いくつかの基本的な点、とくに大まかに分けられた諸区域の環境=雰囲気の性格付けに関して未完のままである。これは、われわれの協力者が、この9月から、21時30分以降、北アフリカ人の外出を禁じた警察条例の犠牲となったためである。A・ハティブの調査の本質は、当然ながら、夜のレ・アールの環境=雰囲気に関するものであった。2度にわたって「鑑別センター」に逮捕、拘留された末、彼は調査の継続を断念せざるをなかった。このように、心理地理学そのものについての考察といえども、やはり現在や未来の政治状況とのかかわり抜きには考えられない。


 アンケート

  1.  人間生態学についての理論的知識がありますか。心理地理学についてはどうですか。どんなことを知っていますか。
  2.  漂流の経験がありますか。それについてどう思いますか。
  3.  レ・アール地区のことをどのような形で知っているか正確に教えてください(早足に訪れたことがある/頻繁に出入りしている/ずっと住んでいる)。
  4.  この環境=雰囲気上の統一体について、われわれの見取り図で提案されている境界線がわかりますか。どのような修正を加えればよいと思いますか。
  5.  レ・アールをこのようにいくつかのはっきりした区域に分けることは、あなたの現地での経験に合っているでしょうか。もっと現実に即した分け方があるとすれば、どのようなものでしょうか。
  6.  都市環境において、一般に心理地理学的な要衝の存在を認めますか。レ・アールについてはどうでしょうか。レ・アールの場合、あなたならどこにそれらを置きますか。
  7.  ここで検討されている環境=雰囲気の統一体に1つの中心があると思いますか。それはどの地点になるでしょうか。
  8.  あなたはどのようにレ・アールに入ったり、出たりしますか(交通機関を利用する場合を除き、よく用いる経路を描いて下さい)。
  9.  レ・アールの内部で、あなたはどの方向に進む傾向がありますか。
  10.  レ・アールはあなたにどのような気持ちを起こさせますか(各区域ごとに)。それはなぜですか。
  11.  時間によって環境にどんな変化があるか、気づいたことを教えてください。
  12.  レ・アールでどのような出会いを経験しましたか。他の所ではどうですか。
  13.  レ・アールでは、建築にかんしてどのような変化が望ましいと思いますか。この環境=雰囲気の統一体は、どの区域で、どの方向に拡張しているのでしょうか。それとも消滅しつつあるのでしょうか。
  14.  レ・アールの経済活動が他所に移された場合、この地区を何に利用すべきだと思いますか。
  15.  心理地理学研究者に必要な資質が自分にあると思いますか。
  16.  あなたがシチュアシオニストでない場合、あなたがシチュアシオニストになるのを妨げているのは何か、簡単に説明して下さい。


回答は、パリ5区 モンターニュ=ジュヌヴィエーヴ街32番地 A・ハティブまで。

*1:レゼック・コラコウスキ(1927-)ポーランドの哲学者。最初マルクス主義者だったが、1966年に共産党を除名される。その後、オックスフォード大学で教える。『アルギュマン』誌に「不首尾一貫性礼賛」と題した論文の翻訳がある。著書に『宗教意識と教会の場所』(1965年)。

*2:コントレスカルプ大陸 パリ5区、デカルト街とムフタール街のぶつかるコントレスカルプ広場を中心とした広い地域を、レトリスト・インターナショナルのジル・イヴァンがこう命名し、その後、他のレトリストやシチュアシオニストもそう呼んだ。パリの労働者街で長い市場通りが続くこの地域は小高い丘になっており、他の地域からは少し隔てられ、独特の雰囲気を持つため、それをパリに屹立する大陸に見立てたのである。このコントレスカルプ広場の近くの、モンターニュ=[サント・]ジュヌヴィエーヴ通り32番地には、レトリスト・インターナショナルの本拠があり、そこに後に『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』の編集部が置かれた。ドゥボールレトリスト・インターナショナルが協力していたベルギーの雑誌『裸の唇』第9号(1956年11月)に「コントレスカルプのポジシオン」と題された記事がある。

*3:ミッション・エトランジェール パリ7区、バビロン街近くの現在のミッション・エトランジェール広場周辺。イタリア大使館など外国公館が多い。『ポトラッチ』第16号にミシェル・ベルンシユタインが、このミッション・エトランジェール公園を心理地理学的に描写した記事がある。

*4:アプドゥルハフィド・ハティブ アルジェリア出身のシチュアシオニスト。パリに生活していたと思われるが、SIのアルジェリア・セクションのメンバー。1960年に脱退。