アラン・レネ以降の映画

訳者改題

 目下フランス映画の世代交代を行いつつある映画監督たちの「新潮流(ヌーヴェル・ヴァーグ)」は、何よりもまず、芸術的な新味が完全に不在であること、そしてその不在が周知のものであることによって定義される。芸術的な新味などは、たんなる意図のレヴェルでさえ存在しない。もう少し積極的にいうならば、「ヌーヴェル・ヴァーグ」を特徴つけるのは、いくつかの経済的な特殊事情である。その主要な点は、フランスでは、ここ10年ほどの間に、ある種の映画批評がたいへん大きな存在になったことであろう。それは映画興行への貢献において無視できない力をもつのである。そのうち批評家たちは、その力を直接に自分自身のために用いるようになった。すなわち自ら映画作家となったのである。このことが「ヌーヴェル・ヴァーグ」の監督たちの唯一の一致点である。かつては、人の映画に恭しく高い評価を与えながら、自らの手のうちに残るものなど何1つなかったのが、以来、すべて自分の作品のために役立つことになったわけである。しかも、こうした平価引き上げゲームのおかげで、かなりの観客をスター・システムの値の張る娯楽作品からもぎ取ってくることができた分、彼らの作品は安い費用で作ることができた。「ヌーヴェル・ヴァーグ」とは、主としてこうした批評家層の利益の表現なのである。
 批評家であるにせよ、映画人であるにせよ、彼らはつねに混乱を糧としてきたのであるが、その混乱のなかで、アラン・レネ*1の映画『ヒロシマ、わが愛』〔邦題『24時間の情事』〕は、夙に有名になったこの潮流(ヴァーグ)の他の作品とともに公開され、同じような賛辞を集めている。この作品が優れているのを認めるのはたやすい。しかし、それがどのような意味で優れているのか、それをはっきりさせることに心を砕く人はほとんどいないようである。
 すでにこれまでも、レネは見事な才能をもって、いくつかの短編映画を撮ってきた(『夜と霧』)。しかし、この『ヒロシマ、わが愛』こそは、レネの作品の発展の上でも、また世界の興行(スペクタクル)映画史の発展の上でも、質的な飛躍をもった画期をしるすものにほかならない。これまで映画の片隅に置かれたままできたいくつかの実験、すなわち、内容に関してはたとえばジャン・ルーシュ*2のいくつかの作品、形式的な探究に関してはレトリストのグループによって1950年頃に作られたいくつかの作品(イズー、ヴォルマン*3、マルク・O(オー)*4。とくにイズーとレネとの問の文通のことに誰も言及しないのは奇妙なことである)を別にすれば、『ヒロシマ」は、おそらくトーキー映画の確立期このかた、もっともオリジナルな作品であり、またもっとも大きな革新をなしとげた作品であると思われる。『ヒロシマ』は、映像のもつさまざまな力を統御することを放棄することなく、音声の優位にその基礎を置いている。この作品に占める語り(パロール)の重要性は、その異例なまでの量、そしてほかならぬその質に由来するばかりではない。それはまた次の事実に由来する。すなわち、作品の展開は登場人物の動きよりも、彼らの叙唱(レチタティーヴォ)によって示されるということである(この叙唱は、映像の意味を作り上げる比類なき方法にさえなりうる。たとえば、最初のシークェンスの終りにある、道路で移動撮影された長い映像がそうである)。
 順応主義的な観客は、レネを誉めてもよいことを知っている。というわけで、彼らはまるでシャブロル*5でも誉めるようにレネを誉め称える。レネはといえば、さまざまな機会に次のことを言明してきた。すなわち、彼の作業は、自律した音声に基礎を置いた映画を探究するなかで考え抜いた方針に従って進められたのである(それは、『ヒロシマ』を注釈つきの「長い短編映画」と定義し、ギトリ*6のいくつかの作品への興味を認め、オペラ映画への嗜好を語ることからも窺える)。ところが、謙虚であまり自分のことを喋りたがらないレネの性格もあって、彼が代表している映画史的発展の意味への問いはぼやけてしまったのである。かくして、レネに対する批評は、共に不適切な留保と賞賛の2つに分かれてしまったのである。
 『ヒロシマ』に対する、もつとも月並みで、またひどく間違った批判は、レネをマルグリット・デュラス*7から切り離して考えるものである。こうした批判は、デュラスのディアローグの文学的誇張をけなすために、レネ監督の才能を称える。しかし、こうした言葉の使い方こそ『ヒロシマ』の『ヒロシマ』たる所以なのであって、それはレネが望んだものであり、脚本家の成功に帰せられるものである。ジャン=フランソワ・ルヴェル*8は『アール』誌(59年8月26日)で、小説や映画の「ヌーヴェル・ヴァーグ」の擬似モダニズムによって進められている「回顧的革命」を告発している。それ自体はまったく正しいのであるが、ただ彼は、レネをその評論「クローデルの剰窃」ゆえに「ヌーヴェル・ヴァーグ」のなかに含めるという誤りを犯している。長年にわたって、けっして自分の好尚を出さず、知性ゆたかな攻撃的論評をものすることで高い評価を受けてきたルヴェルではあるが、さすがの彼も、流行の駄作のなかから本当に新しいものを見分けなければならない段になると、このように突然、弱点をさらけ出してしまう。『アール』誌に載った文章によれば、ただ内容に好感がもてるというだけの理由で、ベルナール=オーベール*9の無価値な紋切り型映画『太陽のはらわた』の方が好きだいうのである。
 レネの支持者たちは、かなり気軽に天才という言葉を使う。これはこの言葉のもつ神秘的な威光のためで、『ヒロシマ』のもつ客観的な重要性を説明する手間を省いてくれるのである。それは、あらゆる現代芸術を支配している自己−破壊の運動が「商業」映画の世界にも登場してきたということにほかならない。
 『ヒロシマ』の賛美者は、この映画にさまざまな小さな美点を見つけるのに力を入れている。それは、彼らがそこからこの映画に通じることになったような箇所である。かくして皆が異口同音に、フォークナー*10について、またその時間性について語るというようなことが起こる。この点でいえば、アニェス・ヴァルダ*11という取るに足らない人物でさえ、自分はすべてをフォークナーに負っていると述べている。実際、誰も彼もが、レネの映画における時間の転覆のことを強調するが、結果として、他の破壊的な面が見えなくなってしまう。同様に、レネがたまたま出会ったフォークナーが、たまたま分散した時間の専門家として通ってしまった結果、すでにプルーストジョイスによって、時間の上に何が起こっていたか、もっと一般的にいえば、小説の語りの上に何が起こっていたかが忘れられてしまう。『ヒロシマ』の時間、『ヒロシマ』の混乱は、文学による映画の併合を意味するのではない。それは、詩を筆頭にあらゆるエクリチュールを解体に導いてきた運動の、映画における継続なのである。
 レネについてはまた、彼のことを例外的な才能によって説明しよういう傾向や、個人的、心理的動機によって説明しようという傾向がある。彼の才能なり心理的動機なりが一定の役割を果たしているのは当然のことであるが、それについてはここでは検討しない。ともあれ、アラン・レネの映画はすべて記憶を主題としているなどということが、たとえば、ホークス*12の映画の主題は男の友情だというのと同じように語られるわけだ。だが、ここでは次のことが無視されようとしている。つまり、記憶という主題は、否応もなく、芸術が内的危機の局面にいたったことを意味していることである。それはいいかえれば、芸術が疑問に付され、解体にいたる異議申し立てに晒されていることにほかならない。記憶の意味への問いは、つねに芸術によって伝承される恒久性の意味への問いと結びついている。
 ほんの少しでも映画が自由な表現手段に近づくとすれば、それは、映画というこの表現手段もすでに解体への見通しのなかに捉えられているということを意味する。映画は現代芸術の力によって豊かになるが早いか、直ちに現代芸術全体を覆う危機に合流する。この一歩前進は映画を自由、すなわち無能さの証拠へと近づけると同時に、その死に近づける。
 映画に他の芸術と等しい表現の自由を要求することは、あらゆる現代芸術の試みの末に、いまや表現が全面的な破産状態にあることを覆い隠すだけである。芸術表現は、いかなる意味においても、真の自己-表現、生の実現ではない。「作家主義の映画」の宣言は、現実に抱負や夢の域を出ることのないまま、すでに時代遅れになっている。映画は、潜在的には伝統的な芸術よりも大きな能力をもちながらも、現在の社会的状況下では、自由なものたりうるには、あまりにも大きな経済的、道徳的拘束を課せられている。その結果、映画の審級は、つねに上訴に持ち込まれることになるだろう。予測されているような文化的、社会的状況の大変動が生じ、自由な映画が可能になったとすれば、その映画のなかには、当然のこと、他の数々の活動領域が取り込まれていることだろう。もっとも、そのときには、もはやスペクタクルが支配的ではない世界の全面的発展のなかで、映画の自由など大きく乗り越えられ、忘れられている可能性が高い。現代のスペクタクルの基本的特徴は自らの崩壊を上演=演出する点にある。レネの映画は、明らかにこうした歴史的展望とは別のところで発想されながら、この展望に新たな確証を付け加えている点で重要である。

*1:アラン・レネ(1922-) フランスの映画監督。戦後、『ヴァン・ゴッホ』(1948年)、『ゲルニカ』(50年)など短編芸術映画によって映画監督として出発し、1956年にアウシュビッツを主題にした壮絶なドキュメンタリー『夜と霧』を製作し大反響を得る。1959年の長編第1作『ヒロシマ、わが愛』(邦題『24時間の情事』、原作マルグリット・デュラス)は、フラッシュ・バックを多用した時間構造の錯綜化、映像と音の不一致、映像に対する声の優位といった、レトリストの開発した手法が多く用いられた。

*2:ジャン・ルーシュ(1917-) フランスの民族学者、映画監督。人類学研究でアフリカ(特にスーダン)を訪れ、研究の必要から「シネマ・ヴェリテ」と名付けたドキュメンタリー風の映画を作る。主要作品に『狂った主人たち』(1955年)、『おれは1人の黒人』(1959年)、『ある夏のクロニクル』(1961年)など。

*3:ジル・J・ヴォルマン(1929-) 最初、「共産主義者青年同盟(ジュネス・コミュニスト)」に加わり『コンバ』紙の記者などをしていたが、1950年、イジドール・イズーと出会い、レトリスム運動に参加。「メガプヌミー」と名付けた音響詩や、「シネマトクローヌ」と名付けた実験映画を製作しつつレトリストの示威行動を積極的に担う。1951年に作ったシネマトクローヌ『アンチコンセプト』は、翌年パリのシネクラブ「アヴァン=ギャルド52」でスキャンダルを巻き起こし、上映禁止処分を受けた。1952年には、イズーらの神秘主義化を批判して、ドゥボールらとレトリスト・インターナショナル(IL)を設立。その後は、ILの中心的活動家として数々の行動に参加するとともに、既存の文字や文章を切り貼りした「転用された物語(レシ・デトゥルネ)」『わたしはきれいに書く』(1956年)などの作品を作る。1956年のシチュアシオニスト・インターナショナル創設に向けたアルバ会議ではILの代表として参加したが、翌年、「長年のばかげた生活様式」を理由にILを除名される。

*4:マルク・O(オー) レトリストの映画芸術家。「核映画(シネマ・ニュクレエール)」と名付けた実験映画を製作。

*5:クロード・シャブロル(1930-) フランスの映画監督。『カイエ・ド・シネマ』の同人で、フランソワ・トリユフォー、ゴダール、リヴエットらとともに、ヌーヴェル・ヴァーグの中心的存在。長編第1作『美しきセルジュ』(1957-58年)でジャン・ヴイゴ賞を獲得。

*6:サッシャ・ギトリ(1885-1957年) フランスの俳優、劇作家、映画監督。ブールヴァール劇の代表者としてモリエール劇を得意とした。

*7:マルグリット・デュラス(1914-) フランスの作家。レネの『ヒロシマ、わが愛』のシナリオを手掛けて以来、小説の他に自ら映画も作るようになった。代表作に『インディア・ソング』(74年)など。

*8:ジャン=フランソワ・ルヴェル(生没年不詳) フランスの作家・批評家。作品に、『将軍スタイル』(1959年)、『右翼への手紙』(68年)、『マルクスでも、イエスでもなく』(70年)など多数。

*9:クロード・ベルナール=オーベール(1929-) フランスの映画監督。インドシナ戦争問題を扱った、1956年の長編第1作『希望なき偵察隊』が検閲にひっかかり、タイトルを『突撃偵察隊』に変更した。

*10:ウィリアム・フォークナー(1897-1926年) 合衆国のノーベル賞作家。フランスでは『響きと怒り』(1929年)、『サートリス』(29年)などが、ガリマール社などから次々と翻訳された。これらの作品について、サルトルは、リアリズム小説を乗り越えるものとして、その語りの複数性、物語の直線的時間性の破壊などを研究し、自らの小説に応用し、その後、ヌーヴォー・ロマンあるいはアンチ・ロマンの作家やヌーヴェル・ヴァーグの映画監督らに熱狂的に受け入れられた。

*11:アニェス・ヴァルダ(1928-) フランスの女性映画監督。1964年から映画を製作。夫のジャック・ドゥミーも映画監督である。作品に、『ラ・ポワント・クルト』(1954年)、『5時から7時までのクレオ』(1961年)、『ヴェトナムから遠く離れて』(1967年、ゴダールらとの共作)。

*12:ハワード・ホークス(1896-1977年) 合衆国ハリウッドの映画監督。人間の勇気や栄誉、威厳、男の友情などのステレオタイプな主題をもとに数多くの映画を作った。主題の凡庸さにもかかわらず、その手法の新しさ(カメラワーク、演出の簡潔さ)はゴダールヌーヴェル・ヴァーグ映画作家の熱狂を産み出した。代表作に『リオ・ブラボー』(1958年)など。